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はるがくるんだってさ

ひとびとの視線の先はきまって僕だ。しかし、それらは虐げられる目でも、好奇心の目でもない。ただ「驚愕」の目だった。
 肌をあたたかい熱がほんのり包む。太陽は雲のあいだから見えたり隠れたり、忙しそうに空を動いていた。桜が咲いたというニュースをほんの数日前に聞いたような気がしていたが、もうすでにピンク色は僕の目にはうつらない。春と夏の間のどうとも言えないさびしさのにじむ足音を、ひとびとは奏でていった。
 もともと僕は、視線を気にするような人間ではない。気にして生きられる世の中ではないと、いつしか悟っていた。しかし僕のこの今の状況は、視線から耐えがたく、気温の影響だけで顔が熱くなっているとは思えない状況だ。今すぐ家に帰りたい。穴があったらはいりたい、ではなく穴を堀って家に帰りたい。できるだけひとの目にさらされたくない。

 美容院から出たときはまだよかったのだ。これくらいなら社会の許容範囲だろう、と高をくくっていた。
「いや、この色がお似合いな方は珍しいですよ。もとがいいんですね」
そう言ってほほえんだ、美容師の言葉をうかつに信じた僕がわるいのだろうか。鏡をみて、
「はい、これでいいです」
と満足そうにうなずいた自分に、ちくちくと針千本を刺してやりたい。
〝散ってしまった桜の代わりに僕を見て〟
と言わんばかりの頭で、ひとびとの中をかきわけていく僕。視線が痛い、痛い。イタい。しかもよりによって真面目に働き終わったサラリーマンたちが帰宅する時間。駅前の美容院を選んだのは大失態だったわけだ。ふつふつと恥ずかしさだけが体中をめぐっていく感覚が、皮肉にも僕をもっと恥ずかしくさせていた。

 どうやらまだ桜は散っていないらしい。泣き言のように心の中でつぶやいた。

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小説の欠片

疲れていた。何にって言われても、そう簡単に答えが出るようなものではないことは、僕が一番わかっていた。
昔から不器用だった。運動もできず、勉強もできず、何をしていてもダメ出しを食らうことは日常茶飯事。正直こんな人生やめてやるって何度も思った。こんな人生終わってしまえって思っていた。
だから泣かせにくるのが見え見えなラブストーリーも、ああ、こいつ死ぬだろうなって分かるキャラクターも、好きになれなかった。どこか達観していたのだろう。それなりに。

そうやって何十年も生きてきた。行き着いた道は誰もが「普通」の象徴として掲げる、サラリーマンの姿だった。だけど、それなりに人生の楽しみ方を見つけていたつもりだった。通勤の電車で人間観察をする、ということ。いかに楽をして生きられるか、湯船に浸かりながら考える、ということ。どんな死に際なら、最期くらい世間に注目されるか、ということ。
僕はたくさん考えてきた。それなりに。

医者なんて怖い被り物だと思うことにした。どこか似ている気がするから。子供は大声で叫びながら連れていかれるし、病名を告げるAIのように無機質な声なんて気味が悪いほど似ていた。
僕の寿命を宣告しやがった時だって、少しくらい同情の念くらい差し出せばいいのに、ぐっと何かを押し殺して言っていることくらいバレバレだ。
僕を支えてくれた妻に、あと少ししか生きられないことを告げなければいけなかった時、かすかにベッドのシーツを握ってガラスのように脆い涙を流した。子供の頃からヒーローになりたいなんて白昼夢だと分かっていた僕だから、涙なんて初恋が叶わなかった時以来かもしれないなあ、なんてそう思った。