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手紙

もうずつとずつと長い閒或る人に手紙を書き續けてゐます。いえ。手紙と云ふにはあまりに粗末で恥づかしいものです。一度も貴方にその手紙を屆けたことはありません。きつと死ぬまでないでせう。なぜなら私は丸っきり貴方が誰なのかすら分からない。ただ貴方はずつとずつと昔に死んでしまつた。それ以外本當に、貴方が何處の誰かも、齡も男かも女かも全く分からないのです。しかし今も何處かに確かに貴方はいる。すぐ隣りあるいは背後、いいえとんでもなく遠く遠くにゐるのかもしれません。

そして私は貴方に手紙を書き續けなければいけないのです。片時も休まずに、この投函することのできない手紙を書き續けなくては成りません。人はみな私のことを狂人だと云ひます。家族にも、友人にも戀人にも恐れられ見捨てられてしまつた。みな私のことをひどく氣持ちの惡い化け物を見るやうな目で見る。それでも私は手紙を書き續けなくては成らない。これが一生の贖罪であるかのやうに。

貴方は一體何處の誰なのでせうか。私は一體何者なのでせうか。もう全て分からなくなつてしまひました。

世の中は生き辛く死に辛い處です。生と死は平等でなくてはなりません。けれどみな死んではいけないとばかり云ふ。それなのに私を見ては恐ろしいことばかり囁きあつてゐる。

本當に、何も、信じることは出來ないのです。老いて死ぬるまで私は手紙を書き續けるよりほかありません。やはりこれは贖罪なのだと思ひます。きつと貴方を殺したのはこの私だ。罪は償はなくてはなりません。

嗚呼、死ぬこともままならなくなつてしまつた。

2

巨大積乱雲がふつうの積乱雲になって空はこころなしか高くなり

欄干から見下ろすと

制服姿の君が自転車を押しながら手を振っていた

本当に好きになってしまうとものにしたいという気持ちより嫌われたくないという気持ちのほうが先立ってしまうって君の言葉を思い出し

僕はなすすべなくすべすべの君の焼けてない頬に手をふれるイメージにひたった

落ちこぼれの僕は覚えようとしても覚えられないことばかりなのに忘れようとしたことは覚えている

気づいたら君は僕の後ろにいて

強い風に長い髪をなびかせてた

口に入りそうな髪を僕は指先でよけてやり

ついでに毛先から髪をすいた

髪は毛先からすくのが美容師のやりかたなんだ

うん

知ってた?

うん

ううん

僕のこと好きだろ

うん

ううん

女は生殖にコストがかかりすぎるから脳に作用するホルモンの合成が男性に比べると劣るんだって

男っぽい女性でも男性に比べると不安が大きいのは男性よりもセロトニンが不足しがちだから

不安が大きいから依存的になって結婚願望が強くなって結果的に結婚して妊娠出産という形になるわけだから上手くできてるんだって

ママが言ってた

すべてはささいなことだと

すべすべの頬を手の甲で撫でながら思った

大人になったつもりだったが

もやもやがつのってただけだった

もやもやは上昇気流に乗って

来年の積乱雲になるのだそうだ

薬飲まなきゃ

人間は記憶の生きものだから薬の効果で気分が上がったところで長続きしない

僕は彼女の手から錠剤を奪って川に捨てた

自転車のベルにはっとし

僕は鞄を肩にかけなおして

バス停に向かった

気だるそうな長い列が

バスに吸い込まれ

マフラーから吐き出された

吐き出された人たちは

上昇気流に乗って雲になり

雨を降らせた

雨に濡れながら僕は

今日は会社を休もうとスマホを取り出した

夏が終わる

6

ω

加速する日常に嫌気が差す若かりし日
虚無へ向かう旅路は複雑怪奇で
分岐点で間違い後戻りもできずに
急ぎ足で雑踏の中を歩いた
影に隠れた惨めさはどこからともなく現れ
あらゆる行動についての抑止力として
苦悩、絶望、諦観と嗚咽の種となる

自発的な交流をする程の自信は持てずに
目を瞑った事実が幾つかあった
それはきっと青春と形容される日々にて
犯した失敗が恐怖に結び付いたから
人のせいにしていたら成長はできないな
でも全部自分が背負い込むのも違うな
昔同じ眼をしたあの子が言った通りだ

僕の歌口ずさんでる君の幻影を見たんだ
泥濘に堕ちてこその人生
できなかった事 見つけきれなかった物
無垢な君の笑顔を守れなかった記憶が
僕を縛っていた呪いもいよいよ消えた
それでも肯定には程遠い
僕は僕のままで良かったか

煙臭いあの部屋 咄嗟についた嘘
一人また一人と離れていった
好き嫌いの境目が徐に消えていき
それがいつの日にかつまらなく思えて
自分とは何者か
曖昧な命題に妥協する人間を横目に生きた
そんな頑固さが吉と出たか凶と出たかは分からない

僕の歌口ずさんでる君の幻影を見たんだ
泥濘に堕ちてこその人生
当たって砕けた事 諦めて逃げた事
あの日立てた誓いを殺してしまった記憶が
僕を縛っていた呪いもいよいよ消えた
それでも肯定とは程遠い
僕は僕のままで良かったか

息を切らして雨の中駆け抜けた日々が
主観的には不規則に進む時間が
とちりながらも必死に紡いだ言葉が
分かり合えないと知りながら愛した心が
昨日までの生の集積が形作る
歪なんて言うのも憚られるそれは
自然な完璧が失敗を含むように
僕を否定した僕が織り込まれている

僕の歌口ずさんでる君の幻影を見たんだ
泥濘に堕ちてこその人生
いつか振り返ったときそう思えればいいが
無垢な君の笑顔を守れなかった記憶が
僕を縛っていた呪いもいよいよ消えた
それでも肯定とは程遠い
僕は僕のままで良かったか