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あの時の正解は自分はわからない

今もこの地震の思いに対する、答えはわからない。
正解がわからない。
自分が書いてることも正解なのか、それは全くわからないです。
それだけ常に考えてしまうし、自分の中で変わった出来事です。

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ゼロ

今まで聴いた中で一番きれい
ピアノも声もノイズもきれい

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やめて!!!

ゼロここで流されたらないちゃうでしょ!!!!( ノД`)

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貴重

なんか貴重な音声だな
今RNも知ったのに何故か親近感がある

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もう10年

震災からもう10年、当時私は中1でした
私は群馬の学校で英語の授業をしていました
先生がプリントを渡し終わりプリントを見ようとした時でした
ガタガタと教室のドアが揺れ始めました
私は風邪で揺れてるのかと思っていたら同級生の男子が地震だといいそうだというふうになり机の下に隠れました
すると自信が大きくなり私は恐怖を感じました
そして同級生の女子が二回目の余震で泣き始めたのを憶えています
そして私は母親が群馬に行くために渡る橋が亀裂が入ってしまい渋滞で学校に着いたのが夜の7時30分過ぎでそれまで学校で担任の先生と校長先生と待っていました
その間もちっちゃい余震が何回もきて怖かったです
帰りぎわに校長先生から差し入れをもらったのを今も覚えています
それから次の週に卒業式にいきそれ以降は寮が閉まってたのとガソリンを節約するために終了式まで休みましたが休んでも出席扱いにしてくれてたので欠席にはなりませんでした
私はあんな一瞬で当たり前だった日常が無くなってしまうんだと私は3月11日の東日本大震災で思い知らされました
だから風化させないことが私はだいじなんだなあと私は思いました

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気持ち

この寂しくて、同仕様もない気持ちから救ってくれるのって、やっぱり遠山校長だったんだなって、改めて凄いなぁ〜って思います。
10年、一緒にいてくれて、本当にありがたい。

やしろ教頭。
本当にありがたい。
生徒一番ってみんなで動いてくれて、一つ一つの言葉も優しく感じる。
ふざける時はふざけて、でも凄く一生懸命で、なんか凄く嬉しい。

私がちゃんと知ってるのは、遠山校長とやしろ教頭と芦沢教頭と坂田校長、小森教頭。
でも、やっぱりSOL!っていいなって、良い場所だなって思った。

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あの当時は中2。

震災当時は中2でした。卒業式の次の日にあの恐怖が起きてとても怖かったです…。皆んな動揺してました。アレから10年…私は24歳になりました。
次世代の子達にもあの日あの時の記憶を伝えていこうと思います。

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3.11

私そういえばいらなくなったおもちゃとか洋服を段ボールに詰めてってお母さんに言われて被災地に送ってくれる家まで持って行ってたな、微かな記憶だけど、、
それくらいしかできることなかったんだよな

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すごいな

SOLってすごい
元校長や、教頭、職員の皆さんが生徒の為にと考えてくださる ここは本当に暖かい場所だな

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3.11

10年前私は8歳でした。私が住んでたところは少し揺れただけだったから、テレビをつけたら地震のニュースばかりで被害の大きさを実感してた。日本に大きい地震が来るたびに地震って怖いなと思い知らされる。

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こんばんは。

みんなの話し、泣きそう。気持ちわかる。私も震災を経験してる。震災、津波は、大切な物や人を奪っていく。当たり前の日常が変わってしまった。震災、津波が怖い。

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3月11日

ここ数年、この日が近づくとだんだんそわそわしてきて、11日になるとどうしてだか言葉に表せないような複雑な気持ちになっている。

今日も1日、複雑な気持ちを抱えて生きている。

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当時の音源

やしろ教頭。よしだ教頭。あしざわ教頭。
みんな本気で寄り添ってくれてるけど、

とーやま校長なんだよね、この十年をずっと見てきて寄り添ってくれたのは。
すごい。

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10年前と今と

福島第一原子力発電所事故が発生して根も葉もないデマが流行したり、店先から軒並みマスクやトイレットペーパーが無くなったり、阿呆らしいけど災害と伝染病で何ら変わらないんだなと思った。パニックになってる時に「落ち着け」って言われたって無理だけど考えて見つめ直すことなら出来るような気がする。

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あの頃、、

あの頃、15歳。中学の卒業式前でした。1人で家にいた時に起きた地震。テレビで見る津波の映像、中学生ながら思うことがたくさんありました。埼玉に住んでいますが、余震や速報、計画停電、経験した事ない出来事ばかりが怖くて、眠れなかった記憶が残ってます。ただ、被害が大きかった地域の方々は私が感じてるより、何倍も表せないくらい、辛く苦しい思いをしたのだと思うと、10年経った今でも涙が出ます。自分の無力さが悔しいとも思いました。こういう事があったという事実を語り継いでいく事が今の私にできる事だと思います。

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これからも

10年は一つの区切りだと思うけれど、20年、30年、100年後の子供や孫の代までこの教訓を伝えていけるかが僕たちに託された運命であり、宿命だと思うから、これからも思い、笑い、泣き、伝え続ける。

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誇らしく

これまでの逆電の生徒の皆さんは、とても輝いてるように感じた。
10年前に大きな悲しみ、恐怖を感じているはず。
今でもその傷は残っていると思うし、時には傷口が開くこともあると思う。

でも、皆さんはその全てを受け止め、両手に抱えて前へ進んでいる。この教訓を次の世代に伝えるために、動いている。
本当に力強くて、美しいです。

そんな先輩達がいることは、とても心強いです。この人達についていけば大丈夫だって思います。そして、この人達に協力したいって思います。私にもきっとできることはあるはずだから。
これから探していきたいです。

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まだまだだ

今日3月11日、あの時小1だった俺は高2に、今日は多くの著名人が宮城に足を運んでくださり、東北を熱く盛り上げてくださいしました。先代のとーやま校長も被災地の南三陸、陸前高田に足を運んでくださり、宮城の良さを発信してくださいました。とても感謝しています。本当に嬉しかったです。10年もたてばもうもと通りになっていると思うかもしれませんが、10年たった今も被災地の問題や、この建物を後世に伝えるために残すかといった問題が起こっています。まだ完璧には復興していません。しかし俺たちは負けません。もっともっと復興するために地域のために頑張ります。それが生き残った俺たちの責任だとおもうから、それがもっと生きたかった人のためになるのなら

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思い出の町

被害に遭われた場所は
復興が進んで、完全に元通りにはならない
かもしれないけど、それでも思い出が残ってるって
不謹慎かもしれないけど素敵だなって思った。

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また住みたいって思える

いろんな人がいて、二度と住みたいと思わない。という人もいるし、また住みたいけど、今のところでの生活があるから、元の街には戻れないという人もいる。
その中でまた住みたいって思えるっていうのは、凄いと思った。

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DAYS

ふなをさん、DAYS4に載っていた記事を読んだ事があって、ふなをさんの前向きな言葉がすごく記憶に残っていました。

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ふなを。さんだ!

今日はふなを。さんの声を聴くのが目的だったと言っても過言ではないほど、自分の中では印象的な気になる存在でした。声が聴けて本当に良かった!

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そうだよね

特別な日だからじゃない
という言葉にハッとさせられました。そうですよね。特別な日は無いんだよね。
震災を経験していない私がこんなこと言っていいかはわからないけれど、きっとふとした時に思い出すんだろうなと思いました。
きっと私には計り知れない悲しい思いをされてる方がたくさんいて、今日11日を特別な思いで迎えている人がいらっしゃるんだろうな。
私は10年前の今日の日を絶対に忘れません。

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今日

今日、ここの生徒であり友達である人達と少しだけ10年前のことを話しました。
そして一緒に黙禱をしました。今こうしていられることにも感謝をしないといけないと思いながら。
なんか、10年が経った、ということに実感が持てません。
掲示板に20,30代の方々の書き込みをみたり、逆電を聞いたり、私の見ているYoutuberさんが当時14歳だったという話を聞いたりして、その10年という時間が迫って来ているような感覚です。
上手く言葉に出来ないです。
あの時画面越しにみたものの欠片が、地震などに対する恐怖などを私の心に置いて行った気がします。

亡くなられた方々にご冥福をお祈り申し上げます。

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想像できない

今、大きな地震が起こって
友だちが亡くなってしまったら。家族が津波に奪われてしまったら。
ほんとに想像できない。でも、10年前は実際にあったんだよな…信じられないけど、でも受け入れないと駄目。
トラウマになってたりもするだろうけど、私たちにリアルを伝えてくれて本当にありがとうございます。

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3.11

被害に遭った人がもう一度その場所に住みたいって思うのってその人たちにしかわからないような気持ちがあるんだろうな…

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もうひとつの卒業式で

とーやま校長とやしろ教頭、職員の皆様、高橋優さんへ。10年前、原発事故で散り散りになった同級生ともうひとつの卒業式がしたいという想いを叶えてくださって感謝しています。当時のこと今でも忘れていません。ありがとうございました。