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六話 一戸町のある民家にて

 父ちゃんは母ちゃんと出会う前、シベリアで働かされてたらしい。父ちゃんが何かの時に教えてくれたけど、それ以上のことは教えてくれたことがない。だから母ちゃんに訊いてみたことがある。 
「父ちゃんは中国さ行っでたか?だがらソ連さ捕まった?」
「多分なぁ。ンだども、そっだらこと直接訊いたら駄目だべよ?」
「分がってら―」
 でもほんとは分かってない。ソ連は父ちゃんを連れてって、酷いことをした悪い奴だ。それっくらいしか知らない。

 父ちゃんは休みの日はよく、縁側に出て本を読んでる。ロシアの作家の本らしいけど僕は読まない。本は文字ばっかりで苦手だから。
 僕は休みの日は、母ちゃんのお手伝いだ。僕は母ちゃんに頼まれて洗濯物を取り込みに庭に出た。ここから、縁側で呑気に今日もナントカって人の本を読んでる父ちゃんが見える。
 大人はいいなあ。休みの日にお手伝いも宿題もしなくて良くて。
 そうやって思いながら父ちゃんを観察してると、たまぁに歌を口ずさみ始める。聞いたこともない歌。
「Нет её прекрасней,Из-за тучи звёздочка видна……」
 よく聞いたら日本語じゃなかった。
「父ちゃーん、それ何って歌ぁ?」
 話し掛けたら、ぽやーって顔でコッチ向いて、ちょっと首傾げた。
「歌ァ?」
「今なんが歌ってたべ」
「あーそうかぁ。確かに歌ってたかもしんねなぁ」
「何だそれ」
 ちゃんと取り合ってくれなくてちょっとムッとした。でも父ちゃんはそのまままた本を読みだした。
「何だァ!答えでけろ!」
 そうやって怒ってみたけど、父ちゃんはにやついて真面目に聞かない。
「はっはっはっは」
「笑ってねえで!」
「はっはっは、よォし、今日は星でも見に山さ行ってみるか」

                             終

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輝ける新しい時代の君へ XⅢ

「大きくなったら読めるようになるよ。君は頭が良いからね、あっという間にね」
「それなら早く大きくなりたい」
「でもね坊や、もっと頭良くするには勉強しなくてはならないんだよ。俺はあんまりお金がなかったから小学校までしか行かなかったのだけれど、いやー、今でも後悔してるね。だってね、もう九つも下の、帝大出の二等兵がいたのだけれど、俺より年も階級も下なのに、俺より計算が早いんだ。俺が全然知らないことばっかり知っているしね。だからすぐ将校さんになったけれど。アレすごく悔しいんだ。だからね、勉強はしないといけないよ」
 少年が聞くにはあまりに長い話だったので、無表情のまま内心うろたえて、話している間、男の方を向いたまま固まってしまった。話が一段落するとやっと、かろうじて首を数度傾げた。男はその様子を不思議そうに眺め、意味が分かると慌てて「ごめん、長かったね。喋るの楽しくて」と苦笑した。
 その後も取り留めのない会話をして、少年は伯母の家に向かい、男はいつも通り手を振って見送った。

 雨が散々に降る季節もやっと終わったかと思うと真っ白い太陽の光がかんかん照り付ける季節がやってきた。まだ朝だというのに逃げ出したくなる暑さだ。これからもっと暑くなると思うと気が滅入る。音源の特定できないやかましい無数の蝉の声が、暑さを助長する。
 それでも今日も、ベンチで二人、くだらない会話を楽しんでいた。
「……あつい」
 四季の変化は基本的に楽しんでいる少年も、うだるような暑さには負けるようだった。白いブラウスの襟元をハタハタさせる。
その中でも少年は、幼心に空の美しさを楽しんだ。白く鋭い光と、終わりを感じさせない青空を映し色づく積乱雲、深緑の木々とのコントラストは、彼の心を奪うには十分だった。
「空はこんなに綺麗なのにね」
 男も少年の意見には同意しているようだったが、涼しい顔をしてにこやかに笑っている。
「……さいきんおもってたけど」
「どうしたのかな?」
「それは、あつくないのか」
 少年は男を指さして言った。『それ』というのは、男の服装の事だった。春に出会った時と同じ、くすんだ緑色の服。生地もあまり薄いようには見えない。それなのに彼は汗一つかいていない。