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なまいとつむぎ #1

きこきこ、きこきこ。
私は生糸を紡ぐ。
そう、見えない布を創るために。


ノスタルジックな気持ちの時ほど出かけたい時はない。
足は自然とペダルを踏む。
その時私はこう思うのだ。
はるか先まで見える直線の線路を見たい、
誰もいない田園の稲穂に囲まれたい、
河川敷で自分の住んでいる街を見たい、と。

当然、
直線の線路を見たからと言って、
稲穂に囲まれたからと言って、
街を眺めたからって、何かが起こるわけじゃない。
そこに言った時に思うことは一つ。

ああ、来るところまで来てしまったな。
それだけである。

達成感と言えば片付くのだろうか。
否、それはきっと違う。
私が自ら体験したかったのは達成感等ではなく、
時間という名の虚無感、それにつきる。

時間というのは幾つものレイヤーの重なりだというのは自明の理であろう。
私はその景色にきっと死んでしまったレイヤーを見つけようとしているのだろう。
もし時間というモノを死んでしまったレイヤーの重なりと定義するならば、死んでしまったレイヤーを確認できない時間とは、そのレゾンデートルを満たしていないということだろう。

つまり、私はそのノスタルジックな気分に動かされ見に行く景色に、今を生きる時間のレゾンデートルを求めているのである。

しかし、私は何処かで真逆の思いを求めてはいないであろうか。
つまり、
そのレイヤーが生きているという期待である。

何処かでこんな話があった。
『もし、亡くなった家族が居たとして、その家族が急に朝に「やあ、元気かい?」ってドアを開けて来ても私達は何の違和感も感じない。
つまり、私達は心の何処かで諦めとともに叶うはずもない願いに無意識に期待しているのだ。』と。

私は期待しているのであろうか。
もし期待しているならば、私は先に定義した時間が壊れることを望んでいるのか。
私はそれに、イエスともノウとも応える。

此処で私は筆を置くことにする。
後は君たちが考える番だ。

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  • やあ、また会ったのかな。
    ファヴァー魔法図書館の方に少々飽きて来たので気分転換にこんなものを続けてみることにします。
    モチベが上がったらいいのだけれど。

    さて、この『なまいとつむぎ』はきっと随筆の類に入って来るモノです。
    思ったことをつらつらーって。
    だから文章も何だか継ぎ接ぎになってるかも知れません。(あっ、いつもの僕しない?←方言使ってみたかった。)

    さて、最後の一文は僕の溜まりに溜まった鬱憤の片鱗です。
    片鱗ですよ、もっと鬱憤は溜まっています。
    まぁそんなことはどうでも良いのです。

    この文章は僕の中では少々例外的に、なるべく見た人には感想を書き込んでいって欲しいなと思っています。
    僕の考えへの同意や反論をある程度若い思考を持った同年代に突きつけて欲しいのです。
    それはこれからきっと書く#2以降も変わりません。

    それでは、また明日。

  • ぱっと見てわかるもんじゃないけど、言われたからには感想をかきます。←あざといね。キーさんの文は少々難解で(自分の中にあるものを色々なことばで表現しようとすること、できること、羨望します)考えを放棄しそうだけれどなんかそれはもったいないな、と。パッと理解できないことは思考で格闘しなきゃなんないから尊いような気もする。レゾンデートルも調べなきゃわかんなかった。言葉(に限らず全てのもの)はその人のイメージに寄り添うものだから、意味を完全には共有はできないだろうけれど。
    自分の中に憧れの景色とかはあってそこを求めて出掛けたりするんだけど、大抵つくとふにおちてしまう、そういうことはあるけれど、時間に結び付くとはね。時間なんて連続してるだとか、今が全てだとか言うと嘘っぽくなる、まるでよくわからないことだと思う。その中で確かにものは移ろって、だけど目の前には今しかなくて。でも確かに行動が景色をうみ、時間はやはり積み重ねで、残せるという可能性を確かめてそれが今のレゾンデートルになるということなのかな。いやぁ、わからん(笑)←これは逃げです。同意も反論もできずまとまってない上に随筆に随筆でかえすようですまん。まるで見当違いで望んでいたものと違ってもそれが意味を成しますように。←傲慢な言い訳、幼稚なんです

  • 大丈夫ですよー、ここに書き込んでくれた時点ですべての言葉は意味を成します。
    最後の2行で私もある種の逃げをしていますし。

    やはり難解でしたか......いやぁ、元々の思考をなるべくイメージを共有する為にこうしているのですが。まぁいいや。

    面倒で書いていなかったのですが、私がノスタルジックな景色に時間を結びつけるのにはワンクッション置いています。
    僕が気分に動かされ景色を見た時に、何故か、
    「ああ、死んでしまったんだな。」と思ったのです。
    直感とは割と馬鹿にならないこともあるので、何が死んでしまったのだろうと考えた時に、「時間」という結論にたどり着いたのです。

    はじめに言うと、ワタクシそんなに考えを持って生活をしていません、恥ずかしながら。
    きっと可能性を確かめるために出かけたのではなく、でかけたら偶然それを垣間見てしまっただけなのです。

    ぬう、わからなくなってきた。
    しかし、ちょっとした反論めかしいモノが隠れてますね。
    行動が景色を生むですか、なるほどと言わざるをえません。
    私これまで行動をした場所に景色があっただけだと思ってました。
    そうだ、#2はそのことにしよう。

    いやぁ色々と収穫がありました、ありがとうございます。
    如何せん私、語彙力が拙いので書きたいことも幾分か書けませんでしたが。
    最後にレスありでしたー。

  • 追伸
    うとうとしていた為見事怪文書となってしまいました。
    かむぱねるらさんごめんなさい。

  • 謝ることはないですよ。
    いやぁ、そんなこといったら僕だって怪文書ですし。色んなものに真摯になると、どうしてもまとまらないこともあると思います。死んでしまった、と思うんですね。そういわれるとなるほど、ふにおちてしまうっていうのはそれと近いのかなと思います。やっぱり言葉っていうのは理論もあるかもしんないけど、その組み合わせが生むイメージでもありますよね。上に思考で格闘するとかいたけど心で抱きしめるものでもあるなって。
    行動が景色をうむのと、行動した場所に景色があるっていうのは同じなのか、似て非なるものなのか、同じものを違う面から見てるような気もします。