ピタン。ピタン。
どこかで雨垂れの音が響いている。薄暗い闇のなかに、パタパタと虫のはばたく音が聞こえる。それ以外は全く静寂のなかだ。
ピタン。ピタン。
神聖トルフレア王国の王都ケンティライムには、都の中心に二つの大きな建物がそびえている。一つは王宮ケア・タンデラム城、そしてもう一つが、ケンティライム特別収容所だ。
収容所、と言えども、上階の殆どは治安維持本部や裁判所等で埋まっており、収容所としての役目を果たしているのは五階にまで及ぶ地下だ。その最も下にある地下五階は、凶悪な犯罪者が収容され、「惡獄層」と呼ばれていた。その惡獄層の奥にいくつかある独房の一部屋に、一人の少年がその身を横たえていた。
「No.2」と呼ばれるその少年は、二日の間何も食べず、また何も飲んでいなかった。華奢な体は薄い灰色の囚人服に包まれ、濡羽の前髪の奥の翠緑の瞳は、よりいっそう暗い輝きをたたえていた。
その少年の名は、ネロと言った。
ピタン。ピタン。
既に何の音もしなくなった惡獄層に、雨垂れの音が響く。規則性があるようでない、淡々としたリズムに、ネロは耳を澄ませながら、物思いに耽っていた。と、そこへ遠くから軍靴の音。
カツーン。カツーン。カツーン。
暫くして音が近づいたかと思うと、ネロの独房の扉の前で止まった。
ガンガンガンガン。ガンガンガンガン。
「No.2。起きてるか」
「............」
「開けるぞ」
甲高い音をたてて軋みながら、扉が開いた。看守の、この男は確か、オヴィアスと言ったか。その手には1枚のトレーが乗っていた。
「ボスはようやくお前さんの飯のことを思い出したようだ。さっき許可が出た。あまりがっつくと良くないからゆっくり食べろ」
「...............」
トレーの上に乗っていたのは、二つの乾いた細長いパンと、卵が1つ、水が一瓶だった。カタン、とトレーを床に置くと、オヴィアスはこちらに目を向け、暫く見つめた後、扉を閉めて去っていった。
看守が去ると、ネロはムクリと体を起こし、トレーに手を伸ばした。前回の食事の時よりパンが小さい気がするが、小さなソーセージから卵1つに変わっているのは正直嬉しかった。ネロはパンに手を伸ばすと、先程の看守の忠告など無かったかのように、あっという間に食べてしまった。卵を殻も剥かずに噛み砕き、一息に水を飲み乾した。小さくおくびをすると、ネロは再び体を横たえた。
もう三ヶ月もこんな日々が続いている。一日一度食事があれば良い方で、運が悪いと五日間飲まず食わずなんてあり得ない話ではない。その度に看守は、忘れていると言っているが、この間隔が計画的であることに、ネロは薄々気づいていた。まばらな間隔のせいで、空腹感が増したり、食事を抜く苦痛が酷くなったりするのだった。
それゆえに、下手に空腹にならないため、ネロは必然的に活動をしなくなっていった。常に寝てばかりいると、当然体は衰える。しかし食べないものだから体力を維持する力さえも得られなくなっていた。
現在法廷では、彼の刑についてまもなく判決が下されようとしているはずだ。極刑だろうな、とネロは思っていた。この国はそんなに甘くない。なめていたわけではないが、逃れられないことをしたのだ、受け入れるしかあるまい、そう思えるようになったのはつい最近だ。
あの「ティルダの怒り」から三週間。あと五日かそこらでこの年も終わってしまう。「年の日」の祭りには、何人かの罪人が恩赦を受けるというが、まあそれも自分にはないことだ。残り少ない己の命を、どうすることもできず持て余している。それが彼の現状だった。
ふと気がつくと、微かに牢獄の囚人たちのにぎやかな声が聞こえてきた。薄暗く時間感覚のないこの独房で、唯一日付が変わったことを知れる時だった。そのにぎやかな声の中、それとは逆にネロの瞼は次第に下がっていった。そして、久しぶりにこんな夢を見た。
『雨が降りしきっている。青白く暗い町の通りを、少年はしとどに濡れて歩いていた。漆黒の短髪をよりいっそう黒く濡れそぼらせ、前髪から滴り頬を濡らす雨水は、まるで涙のようだった。少年はその町を知らなかったけれど、どこか懐かしく遠々しい心持ちがした。
町はまるで静かだった。寝静まったのとはまた違った、あたかも町の人々が皆ごっそりいなくなったような静けさだった。この世界に自分一人だけでいるかのような幻想と虚像を見て、少年は震えた。それでもなお、少年は歩き続けていた。
間もなくして、そっと雨が止んだ。と同時に、少年は背後に何かがいるようなイメージを抱いた。きっと顔を強ばらせ用心深く振り向くと、一人の女性がそこに立っていた。凛と立って微動だにせず、その目は青く燃えるガラスのようだった。前に揃えられた両手には、鍛え抜かれた鋼の短剣が握られていた。
誰だ、と少年は怯えていることを悟られぬよう、いかにも落ち着き払ったように尋ねた。女性は静かに、こう答えた。
「私はデュナだ」
少年はたじろいだ。デュナ。言葉と力とを司る女神にして、他の神々の統括神だ。最高神であると言う神官もいる。
どうしてこんな町にいる、あなたは地に降りることなど滅多にない方だろう、そう少年は言った。するとおもむろに、彼女の口から煙のようなものが溢れだした。三人、いや、四人の女性が同時に話しているような声で、彼女は話し始めた。
「私は私を語らせる力によってあなたに告げる。すべては創世のアルセイシアに。すべては破壊のディアルキアに。終わりと始まりは変わりなく、永久に留まらんことを。
ディアルキアの息子、盾を失う
王の末裔、侵略の子を討つ
旅は不完全なまま終わり
そしてもう一度、少年は█████」
そう言い終わるか終わらないかの内に、デュナはその姿を薄れさせ、消えていってしまった。そのせいで最後の言葉が聞き取れなかった。
気づけば再び雨が降っていた。さっきよりもひどい豪雨だ。少年はうつむくと、もう一度歩き出した。
気付くとそこは森の中だった。少年は、再び懐かしい気持ちになった。この森は見覚えがあった。少年が幼い頃、友人たちと駆け回った森だったろうか。涼しげな風がいつも吹いているその森は、子供たちのお気に入りの場所だった。
いつの間にか少年の背は縮み、傍らには同じぐらいの年頃の少女がいた。やおらに彼女の顔を見ると、ニッコリと笑い返してくれた。その笑顔を少年は、とても愛おしく感じた。
突然爆音が辺りに響いた。何かが爆発したような音だ。二人は咄嗟に耳を塞ぎ、そこにしゃがみこんだ。
「なに、いまの!!!」
「わかんないよ!!!」
少年は少女の耳を塞いでいるその手をとると、迷いなく走り出した。何故か少年にはこの森の出口がわかっているような気がしていた。
「痛い!ねえ、ちょっと待ってよ!」
「急げ!ほら速く!」
二、三度と爆音が轟く。少年は少女が恐怖のあまり泣き出すのも構わずに走り続けた。すると、今度は地響きのような音が鳴り出した。二人の足元も小刻みに震え出す。振り向いた。見ると、何人、何十人もの武装した男たちが馬に乗って走ってくる。
「王兵だ...!」
二人は懸命に走った。しかし騎馬の速度に勝てるはずもなく、呆気なく先頭の馬に追い付かれてしまった。
止まりきれなかった馬は少年を蹴り飛ばした。数秒空中を漂うと、少年は強かに体を地面に打ち付けた。呻き声が漏れる。
「████!!!」
少女が少年の名前を呼んだ。少年は渾身の力で身を捩ってその声の方を向いた。恐怖に見開かれた目が瞬いたかと思うと、
少女の頭はさっきの少年のように宙を舞った。少年の顔に打ち付けられる生暖かい液体。頭が真っ白になり、その直後に真っ黒になった。なにも見えない。その眼前にはその光景が強く焼き付いている。見開かれた目。
「......あああああぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!」
ほとばしる慟哭。そしてその口は、ガントレットに装われた大きな手に封じられた。
意識が飛んだ。』
「っ......!!!」
ネロは飛び起きた。痩せ細り衰えた体がみしり、と悲鳴をあげる。しかしその痛みよりも、右目の奥に疼く鈍痛のようなものの方がネロをひどく苦しませた。背中は独房の気温からは考えられないほどの汗をかき、じっとりとにじんでいた。これほどの汗をかいたのも幾年ぶりだろうか。
喘ぐような過呼吸をゆっくりと整え、ネロは湿った石の床に再び横たわった。冷えた自分の汗が不快だ。
痛み続ける右目を押さえ、物思いに更ける。さっきの夢は一体なんだったんだろう。よく覚えていないが、出鱈目な詩のような文言だけは覚えていた。
ディアルキアの息子、盾を失う
王の末裔、侵略の子を討つ
旅は不完全なまま終わり
そしてもう一度、少年は○○○○○
最後の部分はよく聞き取れなかったか、覚えていないかだが、他の部分は確かに覚えている。しかしこれはどういう意味だろう。
「ディアルキア」は確か、創世神アルセイシアの息子で、破壊の神だったはずだ。これについてはよくわからない。「王の末裔」、というのは誰のことだろう。現トルフレア王ルーガルのことだろうか。しかし奴は末裔ではない。それ以外のところはまるでさっぱりだ。特に最後を聞き取れなかったのは痛いかもしれない。
ただひとつ、わかっていることがあるとすれば、これは確かに『デュナの神託』だということだ。王や覇者が英雄を遣わすときに英雄たちが必ず受ける予言。自分は英雄なんかじゃないし、ましてや誰かに遣わされたわけでもない。
ならば一体どうして。そう問うてみるも、答えが出てくるはずもなく。次第に全て夢だったんだとさえ思えてくる。
いや、実際そうだったのだ。神託の言葉も、いつかどこかで聞いた律文詩を思い出して勘違いしているだけだろう。何を言っているんだ。デュナの神託だなんて。ついに変な思い込みに走るほど精神が参ってしまったか。もしそうだとしたら、そう思うとますます夢のことなど頭のうちから消えていった。
ネロは体を起こすと、あぐらを組んで背を伸ばし、目を閉じた。足の先から踵、くるぶし、足首から脛、ふくらはぎ、膝、膝裏、太ももを上がって腰、背骨を通って首から頭の頂まで、ゆっくりと水のようなものが満たされていく感覚をイメージする。全神経を研ぎ澄まし、太陽が動く音さえ聞き逃さない。静寂は次第に騒音と化し、そして再び静まっていく。次第に全身がゆっくりと沈んでいく感覚を覚える。すっかり軽くなった体重は何倍にも膨れ上がり、石の床にめり込んで、潜っていく。
幼い頃、師に教わった『心の洗浄』だ。ネロの「師」の口癖は、常に心を清く保て、だった。何者にも支配されない、自分だけの世界。体は奪えても心まで奪うことの出来ないものなど恐れるに値しない、と。
少しずつ体全体が微動し始めるのに身を任せ、ネロは静寂を聞き続けた。
ガンガンガン。ガンガンガン。
「...No.2。客人だ」
格子を叩く音に、ネロははっと目を開けた。あれからどれくらいこうして座っていただろうか。足の感覚はすっかりなくなっている。
「お前に会いたいものがおるそうだ。支度しろ」
...俺に会いたい人?一体誰のことだ。俺にはもう知り合いなんていない。......生きているヤツには。
なぜ俺のことを知ってるんだ。それともよっぽどの物好きか、潜伏している右翼の思想犯か。いずれにせよ、看守を待たすのも不憫だ。痺れる足を引きずり、ネロは身支度を始めた。