午前二時。いやに秒針の音ばかりが耳障りだった。目を閉じる。ああ、外には雨が降っているのだ。小夜時雨。こんなにも叙情的な晩が他にあるか。
ひやりとした鏡面に指を伝わす。また彼も、指を伝わす。
「一体全体、お前は何者だ。何処ぞの某だ。いい加減に、僕の真似事ばかりするのはよせ。」
彼は少し、面喰らったような顔をしたがすぐにその僕そっくりの顔面にいやらしい笑みを浮かべた。それは確かに僕の顔であり、けれど決して僕の顔ではない。吐き気がする。
「そうか、そうか、君は気付いていたのか。ならば早くそうと言ってくれよ。それにしてもな、人間は少し愚かすぎやしないか。少しばかり己を信じ過ぎではないか。なぜ鏡に映るのは、目に見ているのはそっくりそのままの世界だと信じて疑わないのだ。」
「まぁ、そんなに言うなよ。それにしても君、ずっとこちらの真似事ばかりしていていやにはならないのか。」
彼はため息をついた。
「やはり君も、何も分かっちゃいないのか。僕は君だ。僕は君と同一の肉体を共有した、君だ。真似事云々などと言うのが間違っているんだ。」
彼の瞳孔は微動だにせずこちらを見ていた。
「──そうか。では君、僕のことを殺してくれやしないか?」
彼はやはり無言でこちらを見つめている。
心地良きかな、雨の音。このまま昇華してしまいそうだ。どれだけ見つめ合ったかももう分からなくなってきた頃、彼はおもむろに口を開いた。
「──ああ、君がそれを願うならば。君のことを、殺してやろう。」
相変わらず秒針と雨の音は鳴り止まぬ。
「楽になれ、少年。」
また同じ、朝がきた。
閉ざした淡いまぶたの色は
朝露に濡れた儚い花びらの色
どこかで花の開く音がした
夢の中に構築された世界
それは懐かしいようで初めて見たようで
幾度も道に迷っては彷徨っている
昏い森を抜けたら
小雨の降る夜の公園
不確かな輪郭の水溜りを飛び越えて
ふと彼方を見上げれば
淡い白い夜の虹
家路さえも分からないけれど
虹の根本だけを目指して彷徨っている
白い吐息が流れては消えてゆく街
指先にほんの少し火を灯して
雑踏のなかその背を探している
どこにもいないその姿を
蝋燭がただひとつ
大きく揺らめいた追憶の影
誰もかも静まった夜色に
もう一度虹彩の色を映す
今夜はもう瞼をとじて
冷たい毛布に弔って
ねこのぬいぐるみが欲しい
可愛らしいねこのぬいぐるみを
たったひとつの贈り物
また明日目が覚めてしまうのならば
蝋燭が消えてしまうまで
ほんの少しだけ夢を見ていたい
表面張力の壊れる瞬間
眦に溜まった水滴がひとつ
頬を伝って枕に落ちる
ランプの色は滲んで溶け落ちて
知らない色は窓の外
夢のなかさえ上手くいかない
目の前の貴方よりずっとずっと
ワントーン彩度の低い世界
あと1時間
目覚ましが鳴った時にはもう
全部忘れてしまうのかしら
少し湿気た上睫毛
微睡む意識は揺蕩って
立方体の空間に
鳴り響くのは秒針の音
どんなに悲しい夢だって
どんなに酷い悪夢でも
何もひとつも忘れたくないの
獏にだってあげないわ
薄紅の蕾は淡く頬を染めて
清廉の花弁は気高さを纏う
いつか青い果実が美しく染まる日まで
それは可憐で美しく
仄かに甘酸っぱい香りを残し
またひとつ色を増す
燃えるようで
柔らかな指先のようで
あまいあまい
世界の何処を探したって
この色も香りもただひとつ
今日は貴方のためだけに
ほんの一瞬の天気雨
すべてが浄化されたよう
目が痛むほどに美しい日暮れ
湿ったベンチにただ独り
一筋の傳う雨
誰もかも消えてしまった
仄かな虹の向こう側に
ひとりの虚像を見る
瞬きをしてしまう前に
行く宛もなく
今にも崩れてしまいそう
忘れ去られた停留所にて
もうずっと昔に行ったきり
今日も帰らぬ人を待つ
たった一夜 小夜時雨の降る夜
静かに真っ黒な世界が泣く音
誰もかも死んでしまう深夜0時
どこまでも曖昧な世界線
たった一夜 夢のなか
仄かな哀しみの甘い甘いベーゼ
たったそれっきり
醒めたらきっと何もかも忘れてしまう
この雨がじきに止んでしまったなら
もう二度と夢にさえ
追憶さえ
この鈍痛も疼痛も
淑やかに濡れる 硝子の花びら
この指先で粉々に砕け散ってしまいそう
破片の飛び散る軌道
どこかへ溶けて消えてしまった