雪は懇々と降り駸々と積もる。窓の外に広がる純白の世界には、ただおそらく兎であろう足跡があるのみであった。俗世の詩では、大抵雪は美しいものとして描かれるが、アーゼンはそうとは思えなかった。風景から色を奪い、モノクロでしかなくなる冬が、さらに白紙に戻されていくように、アーゼンは窓の外を眺めていた。
この山で遭難して、はや三日である。家族の反対をふりきって、飢饉に苦しむ皆の為にソルコムに買い出しに行こうとこの山を越えようとした。しかし案の定、そこに吹雪が来た。立つのもやっとな風の中、偶然見つけたこの山小屋で一晩だけ過ごすだけの気でいた。
「痛ッ.........」
しかしそうはいかなかった。彼の右足は、深刻な凍傷になってしまっていたのだ。既に穏やかな外を見ながら、この足で山を越えきることに、彼は恐怖から挑めずにいた。
扉が開く音がした。はっ、とアーゼンは窓の外からドアの方へ視線を向ける。二重扉になっている手前のドアの向こうで、雪を払い落とすような音が聞こえる。誰か来た。アーゼンは警戒体制をとる。右足をかばいつつも、彼は扉の向こうに意識を集中した。そして、ゆっくり手前の扉が開いた。そこに立っていた人を見て、彼はしばし唖然とした。
いたのは、一人の女性だった。黒く長い髪に、真っ黒な瞳。それとは対照的な、真っ白な肌。淡い黄緑色のワンピースには、腕一杯に色とりどりの花が抱えられていた。...花?
「え、ちょっと、あんた誰?」
彼女は目を大きく見開いたかと思うと、それを細めて訝しげにこちらを見た。
「あっ、悪い、ここは君の小屋だったのか」
「誰の小屋だろうと、人ん家に勝手に入っちゃ......」
そこで彼女は彼の足に気づいたようだった。アーゼンは何故か恥ずかしく感じたが、その凍傷を隠そうとはしなかった。彼女は小さくため息をついて言った。
「...こないだの吹雪ね。てことは暫く何も食べてないでしょ」
「...まあ、二三日ね」
「だと思った。なんか作ったげるよ。待ってて」
思いの外彼女は厚意的なようだった。無理に見栄を張ることもないか、と彼はその厚意に甘えることにした。
どこにそんな食べ物があったのか、調理器具があったのか。出されたスープとパンを見て、彼は思った。野菜や腸詰めの入ったスープも、少し固いが塩気のあるパンも凄く美味しかった。空腹だったと言うこともあったが、それを満たして余りある満足感を得た。食べ終わった頃には、さっき抱いた疑問も忘れてしまった。そして彼は、別の疑問を抱いていた。
「君は、ここに一人でいるのかい」
「ええ、まあ」
「いつから?」
「さあ、いつからだったかしら。覚えてないよ」
「どうしてこんな場所に」
暫く彼女は黙っていた。そして、
「あまり女性を詮索するものではないのよ」
そう言って、静かに食器を片付けた。その目が、何故か寂しそうだったことに、彼は気付いていた。
その夜。二人は火鉢に火を熾して談笑した。彼の村のこと、彼女の暮らしのこと、いろんな話をした。それでも、その所々で彼女の目が寂しげに光るのを、彼は気にかけていた。
「そう言えば、あの花は何だったんだい?」
「...花?」
「そう、君が帰ってきたときに抱えていたじゃないか」
「ああ...。なんでもないのよ。気にしないで」
彼女はまた目を伏せた。訊ねない方が良いのだろうか。そう思っていると、彼女が静かに切り出した。
「...あれはね、」
そのとき、窓がガタガタガタガタ!!!と鳴り出した。吹雪だ。アーゼンは窓の外を見つめる。窓の外は酷い様子だった。風が唸る。雪が殴り付ける。暗闇も合わさって恐ろしいほどだった。
と、ふいに彼は顔を挟まれて、彼女の方を向かされた。と同時に、彼女は心底驚いたような顔をした。
「あなた、真っ青じゃないの!待ってて、今布団敷くから」
「僕は平気だよ」
「何言ってんの、そんな顔して!ほら、窓から離れて!」
知らぬ間に、アーゼンは吹雪を酷く怖れるようになってしまっていた。気付けば彼の体は寒くもないのにガタガタと震えていた。意思とは反して震え続ける腕を見つめながら、彼は呆然としていた。
あれよあれよという間に、アーゼンは布団に放り込まれた。そしてその横に、彼女が座り込む。
「実はね、あなたのような人を、何人も見てきたの。この山の吹雪は、並大抵のものとは違う。心に直接恐怖を植え付けるの。」
やはり彼女は寂しそうに喋る。
「大丈夫。明日には吹雪もやむわ。そしてあなたも、行くべきところに行くの。」
そこで彼女は一息おいて、言った。
「そしてまた、私は独り」
彼女は今にも泣き出しそうだった。アーゼンは、なんと声をかけたら良いかわからなかった。
「そんなことないよ、きっと僕はまたここを通るから」
「ダメなの!」
ビクッ、とアーゼンは肩を震わせた。
「もうあなたはここに戻ってこられない。そういう呪いなの。ここに来た人はみんなそう言ったわ。戻ってくるって。でも来なかった。この呪いを乗り越えてくれる人はいなかったの。そしてきっとあなたも同じ。」
彼女は堪えきれずに泣き出した。
「それでも優しくせずにはいられないの。私は永遠にここで独り。だから、あなたのような人は私の唯一の生きる理由なの」
そう言うと、彼女は向こうを向いてしまった。吹雪の唸りが、ただ小屋の中に響いていた。
夜が明けると、吹雪はすっかりやんでいた。ガバリ、とアーゼンが起き上がると、そこにはもうあの女性はいなかった。そして彼女の名前を聞かなかったことを、彼は酷く後悔した。
彼の足はもうすっかりよくなっていた。身支度を整えて小屋を出る、前に、振り替えって小屋を見渡した。窓のそばに置かれた花瓶にバラが一輪だけ差してあった。
[了]