さぁ、前回のクイズの答え合わせの時間です。
クイズの内容は、脳症の疑いのあるぼくに医者が宣告した中で
今僕は、どうなっているかという問題でした。
選択肢は、
①死亡する
②一生寝たきり
③健常者とかわらない生活が送れる
でした。
その答えは…①ではなく……③です!!
ちょっとだけ「えっ!?」ってなったでしょ?www
そんなわけないですよ。
この間逆電もさせていただきましたしね。
それでは本編へ…
(ここからは、母の日記をもとに掲載します)
回復室にて、母は、やはり痙攣が起きたことと脳症の疑いがあるということで、
ストローで水を飲むときに、「黄色のストロー取って」と言われたときに
ちゃんと黄色のストローを取れていたり
小学校のみんなからの手紙もちゃんと読めていて、その友達の中に毎回
折り紙を入れてくれていた人がいたが、その人の手紙だから折り紙が入っていると
覚えていたり、その折り紙(雪だるま)の顔を描けていたり
脳に異常があるようには、見えなかったそう。
この症状の治療にはパルス療法と呼ばれる。薬を6種類ほど一度に沢山
使う大変な治療だった。
第一部…完!
続きはまた今度!
とぅ~び~こんてにゅ~
外泊が終わり病院に帰る日がやってきた。
(ここからは、母の日記と証言のもと書き込もうと思います)
車に乗って10分ほどで、ぼくは意識を失った。
異変に気づいた母が僕を見ると、全身が痙攣(けいれん)していた。
顔のパーツは全て左側に引っ張られるようになり
親は、生きた心地がしなかったという。
病院についてすぐ脳の検査をしたが見られたのは、脳の浮腫(むくみ)
だけだった。その日の夜また痙攣をおこし、回復室(小児病棟のICU )の部屋に移動
再検査の結果は、脳症の疑いあり。
両親と医者のムンテラ(医者との話)では、
①死亡する
②一生寝たきり
③健常者とかわらない生活が送れる
でした。
さぁ、ぼくは、一体全体どうなってしまうのでしょうか?
とぅ~び~こんてにゅ~
2012/12
1回目の治療(1クールめ)が終了。
医者は、37.5℃以下ではないと、外泊(一時退院)は、許可できないとのこと。
※外泊…治療が一つ終わったら息抜きに一時退院できる。
だが、発熱38℃ほどの熱が絶えず出ていた。
でも、いざ外泊が近くなると熱はギリギリ37.5℃。
家まで病院から4時間ほど車に揺られ家に着く。
案の定疲れ果てていたが、自分の中ではそれよりも家に帰ってきたことのほうが大きい。
その日の夜ご飯は、リクエストで手巻き寿司。
でもどんだけの量食べたかは、覚えていませんww
当時、一番上の姉とその娘も暮らしていたので、一緒にアイスを食べたりしていましたww
そして事件の日は、やって来る。
とぅびーこんてにゅ~
まず、治療のスケジュール(プロトコール)の説明からしようと思います
治療は全部で6回。1、2回目は、一月ほど、3~6回目は2週間ほどの期間の治療です。
主に薬は、抗がん剤、そして、「分子標的薬」と呼ばれる白血病細胞の発生を抑える薬を用いて行います。
本当は、「どの薬を何日間、何日開けてどの薬を何日間、治療が終わり、何日空いたら次の治療」という風に決まっているのですが、
ここは長いので省きますww
2012年10月18日
ついに治療が始まりました。
2012年10月25日 治療2週目
治療2周目、主治医の先生からのお知らせで「フィラデルフィア染色体」というものの陽性反応が出たので、僕の病気の場合は、「骨髄移植」という正常な他人(肉親かさい帯血、ドナーさんなど)の骨髄を頂きそれを移植しなければ治らない。ということを宣告されました。
この時、後々「骨髄移植」があんなことになるなんて、だれが予想できただろうか。
to be continued
僕の病気が発覚したのは、2012年10月12日。今までどこの病院にあの症状
(前回紹介した3つの症状)
を伝えても風邪と診断され、薬を出されるのみで検査もしてもらえないことが多かった。
そんなある日、父が「地元の病院でいいから診てもらってこい」(今までは隣の市の病院に行っていた)
(父のこの言葉がなければ発覚がもっと遅れていたかもしれません)
と言ってくれて母と病院に行った。僕としては、「また同じことを言われるだけだろう」と半ばあきらめていた。
そんな中その病院は、北海道の医科大学病院からの出張医しかいない病院だった。
その日いた先生の病院では、血液の病気(白血病など)の子供たちが多くいる病院で、僕が訴えた症状は比較的多い代表的なものらしく、すぐに血液検査をすることになった。
検査結果は、白血球が通常の約18倍という驚くべき結果だった。
医大(家から車で4時間ほどの場所)に今行くか、明日行くかと選択を迫られた。
その日の夜、親せきを集め家で焼き肉。 年の離れた姉たちやその旦那、子供たちを集めた。
2012年10月13日 入院一日目
小児病棟につくと、すぐに医者との話(ムンテラ)があり、部屋に案内され、採血、点滴(ルート)の確保
レントゲン検査が始まった。 熱は38℃台をキープ。抗生剤を投与され、尿酸を抑える薬と24時間点滴が始まる。
尿酸を抑える薬⇒大量の白血病細胞が死ぬときに尿酸が作られるため。
何がなんだが分からないまま色々なことが始まり、この時は不安でいっぱいでした。
(でも親に心配をかけまいと元気なふりをして、落ち着いているふりをしていました。)
(それでも親には、時々淋しいような不安なような顔をしていたと
後から言われました。)
書き込む際にチェックしますが、やはり誤字脱字や補足の足りない単語があるかもしれません。
意味のわからない単語があった場合レスで教えてください。
これから、1年4ヶ月の入院生活の様子を書き込んでいこうと思うので、これからも呼んでいただけたら幸いです。
入院する前に一体どのような症状で悩んでいたか、箇条書きですが紹介したいと思います。
① 足、脇腹(肋骨)腰の痛み
② 長引く微熱
③ 立ちくらみ、めまい
僕の場合、大きく分けてだいたいこの3つでした。
①の症状は、体の太い骨の中にある「骨髄」と呼ばれる、血液の中にある血球(白血球や血小板など)
を作り出す機能を持った組織の中に白血病細胞が入り込み悪さをし、痛みが出るというものです。 この痛さが痛み止めや湿布など何をしても痛いのが収まらず、
一番といっていいほどつらかった
②の症状は、体の中の正常な白血球(体の中に入り込んだ細菌やウイルスなどの悪いものと戦ってくれるいわば兵隊)
と白血病細胞が戦っているためにでる体の反応です。僕の場合は、平熱が36.6℃程でこの時出ていた熱が37.2℃~37.8℃程の微熱が約一か月続きました。
体はだるいし、常に熱帯感があって熱い。 夜は必ずアイスノンを使ったり
ひどいときは、氷をタオルにくるみその条件で寝ていました。
(次の日の朝、親がベチョベチョのベッドを見て「あんた何やってんの」!?
と、めっちゃ怒られましたがそんな事を気にしていられる状態じゃありませんでした。)
③の症状は、白血病細胞が増えすぎて、正常な赤血球が作られず貧血になってしまうのが原因です。 家の仕事を手伝う時も常に頭痛とめまいで大変だった。
(親は、仮病と勘違いしてましたがww)
ご意見ご感想お待ちしています($・・)/~~~
2012年10月13日 僕が小学4年生だった時のことです。
僕は「小児がん」と呼ばれる子供がかかる病を患いました。
病名は、「フィラデルフィア陽性型急性リンパ性白血病」。
今日から、1年4か月のとてつもなく長く、それでいてあっという間に過ぎた気のする治療の日々を
ここ、学校掲示板に書き込んでいこうと思います。
レスありがとう〜!!低速だから今レス見た!!
まじ!?絡んでくれるの!?めっちゃ嬉しい( ≧∇≦ )♥︎♥︎
是非絡んで(*ノ>∇<)ノ♡もっと仲良くなりたい°+(*´∀`)b°+°
あと、この前の書き込みまじで嬉しくてちょっとドキってした(〃艸〃)
あと、この前の書き込みまじで嬉しくてちょっとドキってした(〃艸〃)
↑
↑そんな事言われるなんて思ってもみなかったので、こちらこそ今心臓バクバクです笑
かわいいとは、本心から思ってますよ。
てかマジかわいいww
一つ目と同じタグ、タイトルの書き込みをこれから不定期ですが
書き込んでいこうと思うので、是非読んで「小児がん」というものへの
理解を深めていっていただけたら幸いです。
今までの書き込み全部読ませてもらいました。
同じ年なのに小さい頃にそんな辛い経験をしたのかと思うと凄いなと思いました。
私は、正直小児がんというのをよくわかっていませんでした。将来の夢が看護師なのでこの話を聞いてより一層助けたいと思いました!
貴重な体験談ありがとうございました!!