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彼もまた、嘘色のハートマークに撃ち抜かれた被害者なのだ

「猫踏んじゃった」のリズムのノック。いつもの合図だ。私は特に急ぐでもなく玄関へと向かい、扉を開ける。一欠の星も見えない夜空、と、同じ色の学生服。彼が、来た。

「ママと喧嘩でもしたの」

笑う私を押し戻すように乗り込んで来た彼は弁当屋の袋を提げているが、うちまで晩餐をしにやって来たわけではないのだろう。その証拠に、ほら、私はもう彼の腕の中だ。彼の低い声が鼓膜を揺らす。

「ね、いいですか」

何が、とは問わなかった。あんたのメシ下に落っこちたけどいいの、とも問わなかった。私は大人の女なのだ。―――大人の女の私は、それらしく、大人のキスでもって返事をしたのだった。



「うわ、フライが遠征してる」

パンツ一丁で弁当箱を開いた彼はげんなり呟いて、ソースの小袋と格闘し始めた。私はふたり分の汗を吸ったシーツを大雑把に畳みながら、先ほどまで爪を立てていた背中に言う。

「私、出掛けるね」
「仕事ですか」

さっきから貴女のスマホ、光りっぱなしですもんね。彼は視線を小袋に落としたまま、つまらなそうに了承した。それから捲し立てるように続ける。社会人は大変そうだ。働きたくねえなあ。

「つうかこのソース、全然開かないんですけど」
「ハサミで開けたら」
「それは反則でしょ、なんとなく」

―――だって「こちら側のどこからでも切れます」って、書いてあるのに。

私はたまらず吹き出す。何を面白がられているのかまるでわかっていない様子の彼はいじらしく、それでいてひどく愚かだった。そっか、そうね。君はまだ知らないままでいい、ぜえんぶ。

笑いすぎて涙の浮かんだ私の瞳をじっとりと見やりながら、彼は不貞腐れる。「まるで貴女の心みたいだ、これ」。彼の手に温められた小袋がくちゃりと鳴った。

「出掛ける前にシャワーくらい浴びたらどうですか」
「そうする」
「行ってらっしゃい」

脱衣所に向かいながら、行ってきます、とは言わなかった。ただいま、を言うつもりもなかった。私は大人の女なのだ。ソースの小袋に最初からハサミを入れてしまうような、大人の女なのだ。―――大人の女の私は、それらしく、大人の笑みでもって、光りっぱなしのスマホをタップするのだった。

今から準備するね、もう少し待ってて、ハートマーク。