昨日も14時46分に、海に向かって黙祷を捧げました。
当時の私は小2。雪が降っていた。学校から帰った直後に地震があって、親に言われるがままテーブルの下にもぐった。食器がぶつかり合うガシャンという音や、何かが倒れるドシンという音。何が起こったのか分からなかった。
学校へ避難して、津波が来るからと言ってみんなで3階へ上がった。窓から見えたのは、どす黒い津波にのまれる車。言葉が出てこなかった。
津波が引いてから、浸水した体育館の掃除をして、みんなでそこで暮らした。20日間ほど体育館で避難生活をした。安否確認のために、体育館で必死に誰かの名前を呼ぶ声が響き渡った。狭いスペースで、お母さんと、双子の弟と3人で暮らした。携帯が繋がらなかったため、お父さんの安否が分からず不安だった。炊き出しを手伝ったり、学校の掃除をしたり、私なりにできることをして役に立とうと思った。
助け合いが溢れていた。
また、お父さんの安否が分かって安心した。
学校は、1階のみの浸水だったので、4月から通えるようになった。転校した子がたくさんいて、クラスにいた人は少なかった。最初の給食は、パンと牛乳だけだったが、それがとっても嬉しかった。
通うはずだった中学校は津波でだめになったので、内陸にある小学校の敷地を借りてつくった仮説校舎で過ごした。狭いし体育館も借りているし、運動部の人は部活が思うようにできなかった。
でも、去年の4月、中学校は新校舎に移った。街の建物は少しずつ復興している。
でも、
みんなの心の復興は、
わからない。
(ながながと失礼しました。)