「秋雨を先取りしてきたの?」
さっきまで窓際のベッドから青空を眺めていたくせに、彼女は汗だくで駆けつけた僕をそんな風にからかう。彼女はいつも以上にいつも通りだった。満身創痍で病院に担ぎ込まれたこと、以外は。
──ぐっしょり濡れたシャツのにおいを気にして、彼女から離れて座っておいて正解だった。その肌のあちこちを覆うガーゼの雲を見ていられなくて、僕はやや目を逸らしながら切り出す。
「あのさ」
「別れないわよ」
彼が好きなの。彼女の硬い声に撃ち抜かれたかのように、Bメロを歌っていたセミが、窓のステージからはけていく。音にならなかった「どうして」は喉元で死んだ。すっかり床へ視線を落としきった僕に、彼女はなおも言う。
「人間って損な生き物だから、幸せよりも不幸せの方が深く残るのよ。柔らかな言葉はこころを包むことしか出来ないけど、包丁の切っ先は心臓の奥まで届くでしょう」
──だから私、貰った指輪よりも新しい痣が大切。キスをしてくれるよりも、傷をつけてくれる方が嬉しいの。
「次は命に関わるかもしれない」
ようやく絞り出した声は夏の風のようにじっとりと湿っていた。ここまで大事になったのは今回が初めてだというだけで、彼女の「服の趣味」が変わったのはもう何年も前の話なのだ。
「ノースリーブやミニスカートが似合わなくなるだけじゃ済まないんだぞ」
「わかってるよ」
──わからないの。彼女は曇り空と化した両の手で顔を覆った。その震える声は、セミの骸すら撃ち抜けそうにない。彼女の思う幸せの形が、僕の持つ型には嵌りそうもなくて泣きそうだった。ぼくはただ、きみにわらっていてほしいだけなのに。