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『普通』の、『良い』人生って何だろう

 「良い」人生であり、あるべき人生であり、そういう人生を生きられてる人にとっては「普通」の人生というのは、唯一自分で自分を守れない「子供」の時期に、「崖」という言葉を比喩で使うなら、その崖に突き落とされることなく、また、崖に突き落とされてなかったとしても、その後の人生で自ら崖の方へ歩いて行ってしまうような人間にならない人生で。
つまり、崖の存在を知らない子供の時期を、周りの親などの人達のおかげで崖とは距離のあるところで過ごし、一杯遊んだりスポーツ頑張ったりして過ごして、思春期と言われるような中高生の時期に、まっだまだ崖とは距離のある状況で初めて崖の存在を認知する。そして、崖とはとても距離のある状況で、そちらに行ってしまえば最終的に崖から落ちてしまう事も認識しながら、そちらの方に行かないように勉強頑張ったり、ツラい事と戦ったり、その為に誰かと支え合ったり、支え合える他者と恋愛をしたりして、段々大人になっていく。そして、思春期を越えていくと、自分が崖に近づかないように小さい頃から頑張ってくれてた周りの人達にどんどん感謝するようにもなっていく。そして、就職したり、どんどん自立していって大人になっていって、今度は自分で自分が崖に近づかないように暮らしていき、そしてその中ではそうして暮らしていける為に家族や友人や恋人等との良い関係を築いてもいく。自然にそれらをできる人間に、自覚なくとも自分の幸せの為に生きていられる人間になる。
そして、いずれは下の世代の子どもを産み、子どもを崖に近づかないように育てていく…、そういう人生が「良い」「普通」の人生なのかなと思う。
 しかし、幼少の時に既に崖から突き落とされていた人生は存在する。しかもそれを身近な親にされた人も居るだろう。物心ついたときには崖の下にいた感覚は言葉にならない。崖を認知し、それ故に足掻いたり踏ん張ったり努力する事すら出来ずに、学区の半径数キロが世界の全てであった幼いうちに心が壊れて、そして後に気付いた時には崖の下にいた、あれからの恐怖や絶望は他の恐怖や絶望と比べられないものだろう。崖への恐怖を感じながら、そちらに行かないように足掻けた、もがけた、努力出来た人生とは全く異なる人生である。
そんな人生には、人々には言葉が、物語が必要だ。もっともっと沢山の言葉が必要なんだと思う。

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