フェンスの向こうに見た暗い夜を魅力的と思ってしまうのは子供の特権だろう。入れないけれど、小さな頭で必死に考えているとそれだけで楽しかったものだ。闇に入り込んでしまえばいずれは慣れて、こんなものかと客観視してしまう。というか見えてしまう。たしかに知りたいとは望んだが、遠足は準備が一番楽しいともいうように、叶わずにぶーたれていた時期がこの年からして既に羨ましい。年を取るというのは、それなりに惨い。
幽霊の正体見たり枯れ尾花。見えてしまう。これはもう不可逆的なことだし、そんな理由で情報を厭うていると滔々と流れ続ける先の未来において不利この上ない。枯れ尾花。そう、それはとってもつまらないこと。人は未知を探すものだと、だからなのだろうか。
知り尽くす楽しみよりも、やはり空白を想像する楽しみ。これに尽きる。遠くから目を眇め、全容を頭に描いて動かしてみる。しかしそこまでしたら実際に見るよりほかに道はなくなってしまう。そこで少し年を重ねると実際に見る権限をもらえたり経済的な隔たりが多少改善されたり、ともかくついにフェンスの先の闇夜へ立ち入ることができる。果たしてそこに思い描いていた物以上の何かがあるだろうか。
「見たい」と「見た」の間には大きな隔たりが今日も存在している。