黒澤由美はじっと文庫本を睨んだまま、「爪が汚い。」と呟いた。
僕はハッとして自分の指を見て、垢まみれの爪を恥じた。爪の間ぐらい、出るときに洗ってくれば良かった。せっかくのリンゴのタルトも、お洒落な雰囲気のブックカフェの内装も、全く楽しめなくなってしまった。自分が汚物になってしまったようで、今すぐこの場を立ち去りたくなった。
ああせっかくのデートなのに僕はなんて愚かなんだ。黒澤由美は表情もなくじっと文庫本を睨んだままだ。彼女の耳の辺りにかかる程度の黒髪が素敵だ。細すぎずかといって鋭さを失わない指先が好きだ。すっと姿勢良く椅子に座り、物怖じせずにいる佇まいに尊敬すら覚える。それに比べてなんて場違いな、罰当たりな僕。青春なんて恥ずかしいことばかりだ。大体僕は本なんか好きじゃないし、洋菓子だってそんなに食べない。下等だ。汚物だ。さっさとくたばっちまえば良い。
「可笑しいくらいに目を泳がせて、そんなのってずるいわ。憎たらしいくらい。たくさんの人がいるのに、あなただけを見てしまうもの。」
僕は顔を上げた黒澤由美の表情を見てしまった。
嘘みたいに綺麗で、夢のようにいとおしかった。
そうして僕はまた、死にたいくらいに幸せとか思ってしまって、自分のあまりの単純さに死にたくなる。
僕なんかが人を好きになるんじゃなかった。でもどうしろって言うんだ。好きになったが百年目、どうしようもこうしようも僕はあまりに無力なんだ。