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F氏の話

F氏の話をしよう。
F氏の友人のR氏が、まだ自分の店を持っていたころの話だ。
F氏は、優雅な日曜日の午後をすごそうと、美術館と行きつけの喫茶店へ向かおうとしていた。駅で汽車を待っている間、そっけないほどに素朴な花壇をぼうっと眺めていた。F氏は、大変花を愛していた。
汽車に乗り、橙色の切符を車掌に渡した。
花売りの少女から、百合を三本ほど買った。コインと共に、かばんに入っていたキャンディをひとつかみ握らせてやった。
F氏は、子供への思いやりにあふれた人物だった。
美術館につくと、中に入る前に、不慮の事故でなくなったある画家の慰霊碑に百合の花を供えた。
美術館の中は、日曜にも関わらず閑散としていた。F氏は、人ごみを好まなかったので、これは良かったと一人微笑んだ。
ゆっくりと絵画鑑賞を楽しみ、資料室で少し居眠りをした後、喫茶店へ足を運んだ。
F氏と喫茶店のマスターは、とても馬が合った。
ブレンドコーヒーと、小腹を満たすためのサラダを頼んだF氏は、マスターに美術館で買った絵ハガキを一枚やった。
マスターはそれを額に入れ、トイレの壁にかけた。
2人は小一時間語り合った。ピカソの天才的な才能について、最近始めたピアノの難しさについて、部屋を掃除したら出てきた数十年前の記念硬貨について。
夕日が沈みかけたころ、F氏は店を後にした。
その夜、F氏は家に帰らなかった。

それ以来、F氏の姿を見たものはいない。

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