それは、ある過ごしやすい秋の日のことでした。
少し長引いたアルバイトから帰ってきた私は、余りの疲労に風呂と歯磨きだけ済ませてもう眠ってしまおうと、風呂場に向かいました。
シャワーだけの簡単な入浴時間を終えた後、眠気で重い瞼を無理に開けることもせず、ぼんやりと洗面台に向かって歯を磨いていると、ふと、背後に気配を感じたのです。私は大学進学を機に独り暮らしを始めておりましたので、気配を発する他人などいるはずもありません。ゴキブリか何かかしら、だったら嫌だなあ、などと思いながら目を開き、鏡越しに背後を確認しましたが、そこには私の他に生物など映っておらず、直に振り返ってみても、何もいません。
嫌な予感で背中に冷や汗を感じながらも、目を閉じて歯磨きをさっさと済ませ、口を漱いだその時です。
先ほどより一層強い、あの気配。
(……マズい。それが『何か』は分からない……ただ、『何か』が『いる』ぞッ!)
咄嗟に歯ブラシとコップを放り出し、普段からのものぐさのお陰で開けっ放しにしておいたはずの洗面所の扉へ、目を閉じたまま飛び退りました。目を閉じていようと既に1年半は身を置いているアパートの自室。距離感を間違えるはずもありませんでした。そうであるにも拘らず。
(がッ……⁉)
予期しない位置で背中に走った衝撃。扉は何故か閉まっていました。おかしい。この自分が、まさか扉を閉めていたというのか?
混乱しながらも後ろ手に引き戸のそれを開き、転がるように居間まで逃げ出し、漸く目を開きました。しかし、場所が変われば件の気配が目につかないのも当然というもの。
(どうする……? 『奴』は、確かに『今』ッ、あの場所に、確実に『いる』ッ! 『非科学的』とか『非現実的』とか、そんな理屈は通用しない、常識の外に位置する『何か』が、確実にだ! 外に逃げるべきだろうか。いや、今は既に夜も遅く、言うなれば『奴らの時間』。我が家という『縄張り』から一歩でも外に出てみろ。そこからは『奴らの領域』! 現状、最も『奴』に近く、最も安全な場所——この家の中でッ! 決着をつける外無いッ!)