「律、おいで。帰るよ」
下りるのに手こずっていると、私を抱こうとするあなたの腕が伸びてきた。
隣にいたアイカちゃんが怒りで顔を真っ赤にしてこちらを睨んでいるのを視界の隅でとらえる。
貴方の手が私に触れるか触れないかという時、アイカちゃんは私を思い切り突き飛ばした。幼稚園児の力なんて大したことないけれど、貴方の手を信頼仕切っていた私はほとんど力を入れていなかった。
ふわっと体が浮き、頭上に湿った砂が見えた。貴方が驚いたように私の名を呼ぶのがなぜか遠くで聞こえた。
気づけば、地面に寝ていた。横から押されたので思ったよりも遠くに飛んだらしく、こちらへ駆けてくる貴方が見えた。頭がぼうっとしていたけれど、不思議とどこも痛くはなかった。先生が園舎から飛んでくるのが見えて、そこで私の記憶は途切れている。
唯一わかったのは、貴方の腕の中にいると言うことだった。
次に目を開けた時、私が寝ていたのは園庭の油っぽい砂の上ではなく、そわそわするほど真っ白なベッドの上だった。同じように白い天井が目に飛び込んできて、自分がどこにいるのかわからなくてどうしようもなく不安になり、視界が涙で滲んだ。
だから、貴方が「律」といつも以上に美しく温かい声で呼んでくれた時、ベッドの反対側にいた母のことなど目もくれず、迷いなくその意外と広い肩に抱きついた。
私の短い腕ではとても背中まで手が回らなかったけれど、貴方は優しく頭を撫でて一言、「よかった」と呟いた。
頭を打っていたので数日検査入院したけれど、その後は今まで通り生活できた。退院したのが金曜日だったので、次の月曜日からは普通に幼稚園に通った。
入院中にアイカちゃんとそのお母さんは一度うちを訪ねてきたと母から聞いた。どんな話をしたのか気になったが、母の年齢を感じさせない綺麗なその横顔を見ていると、なぜか聞けなかった。
「律ちゃん!」
教室に入った私を迎えてくれたのは、美亜ただ一人だった。
もちろん他の友達も、私が声をかければ答えてくれたが、自ら駆け寄り、話しかけてくれたのは彼女だけだったのだ。
違和感を覚えた私は、近くを通りかかった女の子を捕まえ、聞いてみた。
「ねえ、何かあったの?」