昔から、小説を閉じた直後は、その小説の語り部が勝手に私の脳内に上がりこみ、私の世界を描写していた。誰にも話したことがないから、この状態が普通なのか、そうでないのかわからない。
自分が見ている世界は、何もしなければただの映像でしかない。
昔の映画には、音声がなかったという。音楽はその場で奏でられ、活動弁士という人が内容の解説をしていたそうだ。
私自身が見ている世界の映像は、幸運にも、無音ではない。しかし、所詮映像は映像だった。それ以上でもそれ以下でもなかった。私と同じように、それでは味気ないと感じた先人たちは、その情景を歌に詠み、詩を編み、彩ってきた。彩色されたその世界は、現実より有意義で、豊かで、美しく見えた。
これを書いている今、ある語り部が私の頭の中に、勝手に上がりこんでいる。つい先ほどまで、私は彼のエッセイを読んでいた。
私は彼が好きだ。彼ほどに人間としての魅力に溢れた人を、私は知らない。
そんな彼のエッセイに触発され、私も少しエッセイを書いてみようと思った。
どれくらい続くかは私にもわからない。
それでも付き合ってくれる方がいるのなら、どうか、共に楽しんでいこう。活動弁士が彩色する世界を。