ヤーコフ医師は、牡丹江の俘虜収容所に派遣された。日本人を収容しており、シベリアの収容所までの中継地点である。日本人はここからシベリア各地に送られる。
その医務室には今日も病に侵された元日本軍人がやってくる。
「次の方、お入りください」ヤーコフが促すと、日本人が一人、静かに入ってきた。ソ連に捕まった時のよれた第一種軍装のままの20代か30代の一等兵だった。名を訊くと芝野倉治と言った。
「お座りください。……どういたしましたか」
「咳が酷いのです。痰が絡んで息苦しいのです」
「どのくらい前から」
「3日、4日程度です」
「それは気の毒に……結核やもしれません。今日から病棟に入りましょう。念のためです。検査ができんもんですからね……」
そう言ってヤーコフは入棟の為の申請書を書き始めた。途中、日本人に話し掛けた。
「前回来た中隊の人ですか」
「ええ」
「私も最近派遣されました。本当は妻も子供もおるんで、ロシアに残りたかったんですがね。芝野さん、ご家族は」
「母と妹、身体の弱い弟と……婚約者が内地に」
「それはお辛いでしょう」
「せめて籍を入れてくれば良かったと。働かされては可哀想ですから」
「そうですね、あなたが一刻も早く祖国に帰れることを願っています」
ヤーコフが穏やかに微笑むと、日本人は彼に哀れむような眼を向けた。
「あなたは優しいですね……でも、それじゃいかんですよ。私は俘虜です。そしてあなたは我々を収容する側です。偉そうに冷淡にせにゃならんのですよ。俘虜になめられちゃ悲惨です」
そこまで言うとヒューヒュー空気が抜けていくような酷い咳をして、ヤーコフは急いで背中をさすってやった。
「無理せんでください。お体に障りますよ。……確かに私たちは芝野さんたちを収容する立場にあります。でもね、ここではそれは関係ないのです。ここでは私は医者で、あなたは患者です。今異国の地で絶望に震える者たちには、優しさが必要なのですよ。あなたたちが無事に帰るのに必要なのです。未来にはあなたたちがいなくてはいけないからです。だから、あなたたちが帰るために、私はなめられても仕方ないのです」
「自己犠牲は無駄です」
「違いますよ、これは自己犠牲なんかじゃないんですよ」
終