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我が「違う」全肯定論

当然ながら私という人間は「私」の構成要素でできており、それらは、いずれも一つとして独立する事無く、複雑に絡み合い重なり合っています。
当然ながらそれら悉くが他人と同じということは無いでしょう。いうなれば私を構成する小片の一つ一つが「違う」なのです。
して、その「違う」を厭うとは、それ即ち「私」の断片を否定することに他なりません。たかが一つと侮るなかれ。先述した通り、それらの小片は全てが別の小片と繋がっており、一つを否定することは、それと繋がる別の欠片をも否定することに等しいといえます。
そこから先は無限の連鎖。「私」の悉くが只管に踏み砕かれ、瞬く間に音を立てて無残に塵と沈むでしょう。

なればこそ、私の「違う」のただひと欠片も、飲み込み背負って歩むしかないのです。苦痛に膝を屈する暇など無く、「私」の全てを引きずって、ただ泥の道を往く外無いのです。その道程の瞬間もまた、数瞬未来の「私」の欠片となるでしょう。

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