戦争の痛々しい傷跡がまだ多く残る広島という野球王国にいよいよカープ球団が生まれた。
しかし,産まれたばかりのカープに襲いかかった試練は数多い。
その全ての原因は一言で言うと資金不足だ。
まず前提として、職業野球・プロ野球のチームとは特定の親会社が保有する球団がプロリーグに加盟することが当時の常識であり、時代に応じた業種で潤沢な資金をもつ大企業が保有する球団が多い。
一方の広島カープは、というと…
戦争中に投下された爆弾によって工場も地域のお金も,人々もその多くが街もろとも失われ、そもそも野球に投資できる余裕のある大企業自体が存在しておらず心優しい有志の市民が協力して少しずつお金を出し合って産まれたいわゆる市民球団だ。
さらに,試合の主催者に関わらず、試合に勝った側にその日の収益の7割を、負けた側に3割を分配するという当時の構造上、巨人のように戦後でもまだ資金も選手も多い球団と,地元出身の監督の人脈だけでなんとか選手を開幕直前までかき集めたカープとでは、実力差が大きくてカープが負けてしまうことが多く、ただでさえ少ない収入が更に減少した。
バットを除いた全ての野球用具が革と糸から作られる関係で,ボロボロになった道具を手作業で一つ一つ縫い直して練習したり,選手の給料や選手の遠征費を払うことにすら苦労して球場の物置で寝泊まりさせたり、2軍の選手を一時的に実家に帰らせて解雇するまで困窮する時期も経験した。
そんな努力もむなしく結成2年目にして完全な資金難に陥ったカープ球団に対する裁定は…
次の関西・甲子園球場での試合にカープが欠場した場合,カープをリーグから除名することがリーグの結論であると報道・発表された。
そのニュースを聞いたカープの監督や選手は、まだ全員が戦争を経験しており,「戦争中はいくら望んでも許されなかった野球が平和になった今ならばできる。だから,甲子園まで歩いてもう少しだけ野球を続けたい」という想いから、広島から甲子園まで約300kmという距離を歩いて試合に出場するという悲壮感漂う覚悟を決めた。
一方その頃,その覚悟を聞いた心優しい地元ファンの有志8人が地元のメディア局になだれ込み,地元の宝を,カープを残してくれと懇願して臨時の募金作戦を開始する。