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寂しいものですね。。。

悪い事をしたから罪悪感を感じる。
良い事をしたから満足感を感じる。
逆ですよね。
罪悪感を感じることが悪い事。
満足感を感じることが良い事。
だって、いつだって我々が行動を起こすのは
満足感を得られると分かった時か罪悪感を感じた後だもの。
悲しいと思うのもそれを否定したい自分を肯定したいだけ。
いつだって僕らは無力だ、そこに意思なんてない。
運命のなんて残酷なことか。

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  • 無力ですねえ。そんな無力な僕らは、それでも何かしらの行動を起こさざるを得ないのは、何ででしょうか。僕らに行動を起こさせる根本的なものが何なのか、ぐるぐると考えてみるのも楽しいですよ。

  • 欲、端的にいえばそんなところでしょうか。
    実際のところは内なる必要に応じて本能が発したものとか。
    いや、宇宙が物理法則によって成り立っているなら、
    そもそも行動の根本に意思や意味は存在しないのでしょう。
    そう考えると、結局僕やサトツさんの思考すらも意味なんてないんですよね。
    もしも意味があるとすれば、
    この世界は人間以外の生物を飼育するためのもので、
    人間の存在はイレギュラーだったとか、そういう世界の話になってきますよね。
    確率は0ではありませんが、我々では理論による証明しかできないでしょう。
    ただ、こうして無力感に襲われて絶望することは良いことだと思っています。
    といいますのも、絶望するには希望が必要なわけで、
    絶望を味わうという事は希望を唱えるだけではなく追究しようとした
    証だと個人的に思っているからです。
    この世界、宇宙、星、国、都市、町、家族。
    世界といって人間が思い浮かべる物のサイズはそれぞれでしょうが、
    結局は人間によって観測された現象の一部に過ぎません。
    ならばもしも世界に意味があった時の為に絶望しておくというのも、
    一つの選択肢なのでしょうね。

  • 時として、他意もない行動が、結果として、罪悪感や、満足感に繋がったりもしますよ。
    逆に、よかれと思ってやった行動で罪悪感が生まれたり。
    しかも、悪い事、良い事、の線引きなんて、曖昧じゃないですか。
    僕は、無力感をすごく感じるけれど、それは、僕の言動が僕の手を離れてどうしようもなくなった状態で意図しない反応を起こすからなんです。
    それは、運命だなんて、曖昧なもんじゃない。
    けれど、それは、運命だなんて、確固たるものじゃない。

  • 私が思うに、我々に意思があるということ自体
    人間によって、、、というより他人の意識を私が感じられない以上、
    私によって観測された現象の一部に過ぎません。
    真実がどうであれ、この宇宙の中で自由運動などできないのではないでしょうか。
    といいますのも、宇宙が存在するという事は
    宇宙には始まりが存在し、終わりも存在するという事です。
    もし宇宙が単体だとすれば、そこには独自のルールが存在しているのでしょう。
    というより、その独自のルールがあるからこそ、
    宇宙は宇宙たりえるのではないでしょうか。
    私は今回運命という言葉を用いりましたが、
    それは漫画や小説で扱われるような変えられるものではないと思っています。
    正しく言えば物理法則です。
    すべての物質はこの宇宙の中では物理法則にのみ従って運動します。
    我々人間の体もその物質で構成されているのです。
    ということは、結局我々に自由意思なんてものは存在せず、
    このタイミングでこう思うと決められたものを
    ただなぞっているだけなのでは、と思っています。
    、、、内容に直接関係はありませんが、
    久々に自分の考えを口にするおもしろい討論ができそうです。

  • 西藤ブルーレンジャーさん 世界に法則が存在するということは、否定できないことですね。そしてそのルール通りに世界ができている、というのも同時に中々反証できない。そして、此処こそ問題なのですが、世界にルールがあることと、人に自由意思が無いということが、簡単に結び付くかどうか、ということを考えてみましょう。例えばサッカーのゲームで、ルール通りに全てが運んでいる試合があったとき、個々の選手には自由がないと言えるでしょうか。難しいですね。自由意思をどう捉えるかによって変わってきますね。仰ったように、世界は自意識が観測できる範囲でしか存在しないと言えますが、そう考えるのであれば、世界は自由意思に満ち溢れている、と考えることもできます。反対に、個人がどう思おうが、世界の創造主から見れば創造主の思った通りの行動をしているだけなので、自由意思など無いと見ることもできます。そもそも自由意思=どのような法則にも束縛されない意思、と考えて良いのでしょうか。サッカープレイヤーの華麗な足技は、サッカーのルールに縛られたものですが、ルール内での自由から生まれたものですよね。頭がきゅうっとしてきますね。

  • 私が無力感を感じるときは、
    なにか無限のものに触れたときです。
    それは神秘であり、また畏怖の対象でもあります。
    そしてそれは意図しないものではなく、私の意志が行ったことです。
    話題は変わりますが、正義や悪は曖昧なものではないと思います。
    確かにすべての人類、生物を中心に考えるのなら、
    それはとても曖昧なものだと思います。
    しかしそれは確かに個人の中には存在しているのです。
    もちろんそれはずっと変わらないものではなく、
    私の場合はコロコロ、、、まででもありませんが変化します。
    変化するものが曖昧とするならそれは確かにそうです。
    しかし私はその瞬間に確固として存在するそれを、曖昧だとは思えません。
    こうして個人の間に差があるからこそ、不平等だからこそ、
    我々は切磋琢磨しあいます。
    本当の平等とは全員が権力を同じだけ持っているのではなく、
    その人の力に合わせて、権力が配分される事かと。
    生物は権力を手に入れるため戦い、進化してきました。
    ようするに戦いは進化の過程の中の出来事です。
    それができない今の人間は生きていると言えるのでしょうか。
    要約しますと、社会の存在は思考の妨げにつながりますよね、って感じです。
    むしろあえて矛盾だらけで苦痛の多い社会を作ることで、
    思考の発展を促しているのかもしれませんが。

  • >>サトツさん
    確かにそれについては考えてみる価値がありそうです。
    いやぁ、楽しいですねぇ。
    これについてはまったくの新境地ですので、少々時間がかかりそうです。
    ですがルールの中での自由については、少しながら意見があります。
    今回はサッカーを例に出していましたが、
    私は思考とサッカーを同一視することはできません。
    といいますのも、私は思考するのにこれといった目的があるわけではありません。
    そのため導き出した理論は正解ではなく、また道具になっていくからです。
    ここまで書いて思ったのですが、
    結局のところ新しい理論も多数の理論の中で状況を分析することで生まれます。
    そう考えると、理論というルールの中の思想という自由とも受け取れるのですね。
    主観者の進化を促進させるものを理論とするなら、
    確かにそこには自意識が溢れていますね。
    いやぁ、また考える事が増えそうです、ありがとうございます。

  • いえ、いいんですが、的を絞って会話をした方が、実りがあるかも知れません。
    主題はなんなのか。
    条件があれば、それはなんなのか。
    僕らは、まだまだ発展途上の脳です。
    思考して、取り入れる事は大いに発展に役立つ事だと思います。

  • 確かにそれもそうですが
    どの理論がどんな結果を及ぼすのかが分からない以上、
    私としては様々な理論に触れつつ考えていくというのも嫌いではありません。
    そしてなにより、そちらの方が楽しいです。

  • なるほど。
    私は、例えば、ミロのビーナスを中心に置いて、それを色々な角度からデッサンするようなアプローチがすきで、西藤さんは、自分を中心に置いて、周りにミロのビーナスやマルスやメディチなどを置いて描きたいタイプなんでしょうね。
    私からすれば、散らかってしまって浅い様に感じるし、あなたからすれば、対象物が少なくて物足りなく感じるんでしょうね、きっと。
    了解しました。

  • 自分は物事を考えるとき、やはり最初は一つの事に集中しますよ。
    ですが自分の友達に一人討論できる人がいて、
    その人と討論していると自分がまだ持っていない理論を示してくるんですよ。
    そうなると自分は討論しながら考え、結果その理論についての追及を始めます。
    そうすると、最初の討論内容とは違う場所に着地してしまうのです。
    そうして理論を増やすと、今までは分からなかったことまで
    解明できるようになります。
    自分は一つの事ばかり考えているとそれ以外のものが見えなくなってしまいます。
    そうすると物事の単純化、パターン化がしにくくなるので、
    自分は様々な事に触れながら、いろいろな理論をたて、
    それに基づいて解釈するようにしています。

  • うーん、思考を他人に伝えるのは難しいですね。
    直近の、私へのレスには、とても共感します。
    ひとと討論すると、まだ自分にない理論を提示されてワクワクしますよね。
    それについて考える気持ちも解ります。
    しかし、私の感覚的に前のレスのデッサンに当て嵌めると、
    ・中心に置いたミロのビーナスを私は、真っ正面から見て描きました。(主題への私の意見の提示)
    ・Aさんは、向かって右側から見て描きました。(主題へのAさんの意見の提示。私としては新しい角度)
    ・「Aさんのデッサン、いいな」→Aさんのデッサンを元に描き起こしました。(Aさんの理論についての追及。)
    ・結果、「ミロのビーナスのデッサン」ではなく、「Aさんの描いたデッサンのトレース」になりました。(主題から離れた場所への着地。Aさんの主題についての意見への解釈。)
    っていう感じなんですよ。伝わりますかね。
    反対に、僕が提案したものは、
    ・上記のAさんの意見の提示までは変わらず。
    ・「Aさんの描いた角度いいな」→場所を交代してミロのビーナスを描く。(Aさんの理論を自分なりに解釈してみる。)
    ・結果、「ミロのビーナスのデッサン」ですが、「正面からと右側からの2枚」になりました。(「主題について」の自分なりの多角的な解釈。)
    っていう感じです。
    何か導きだしたい物がある場合は別ですが、そうでなければ、私はどちらの結果でもよいと考えています。
    自分の思考が拓ける事にはかわりないので。
    ただ、深度という点で見た場合、主題をしっかりと見据えた上で、どうアプローチするか、という方が深くまで掘り下げられるように思うんです。
    また例えで申し訳ないですが、例えるなら、討論する事はセーブの出来ないRPGの様に感じます。
    メインストーリー(主題について)を進めていき、途中でサイドストーリー(自分とは違う意見への追及)があるような。
    メインストーリーの進み具合(主題について、どの程度まで追及が進んだのか)は、ここの場合、新たにスレを立てると、まっさらの状態になるのでまた新たにメインストーリーを進めなければいけません。
    逆にサイドストーリーは、メインストーリーに沿ってはいますが、メインストーリーとはある程度独立しているので、また新たにそこから話を再開できます。

  • このように、順番に潰していった方が、より多くの思考の交換や解釈が出来るのではないでしょうか?
    と思ったので、お節介とも受け取れますが、横槍を入れさせて頂きました。

  • 自分も基本的には後者の思考方法ですが、やはり気まぐれですかね。
    いくら張り切っても結局は解釈で収まっちゃうし、証明もできないですから。
    それに私は(多分みなさんも)思考は意識して行っているのではなく、
    やる気がなくてもやってしまうものなので
    その時のテンションや状況によって思考内容を変えてしまったりと、
    確実にコレ!というものはありません。
    やはり感情は捨てきれないモノです。

  • なるほど、今回はきまぐれだったんですね。
    そういえば、「他人を思いやる」のときは、主題から離れてませんでしたもんね。
    必ずしも、脱線が悪い事だとは思いません。
    他人の思考に触れて、そこから色んなテーマの考えを交換できるのは、脱線ならでは、ですからね。
    言うなれば、ライブDVD発売のときのスポットみたいな、サビメドレーみたいな感じですね。
    対して、主題に添った意見交換がフルコンサート。
    どちらも一長一短です。
    言わずもがな、ですが、スポットでは、曲のまるっと聴く事は出来ませんが、全部の曲を短時間で耳にすることができる。
    逆にフルコンサートでは、曲をまるっと聴く事は出来ますが、短時間で全曲に耳を通す事は出来ません。

    確かに仰る通り、思考自体はやる気の有無に関わらず、行うこと。
    しかし、少なくともこの場では、自分の考えた事がダイレクトに文字になって投稿される訳ではなく、自分の思考を文字として可視化して、読み返す事が出来る媒体に直してから、書き込むボタンを押し、さらに、投稿ボタンを押してからやっと、自分の手を離れる仕組みになっています。
    それまでの間に、主題と照らし合わせる事は出来るのではないでしょうか。
    これは今回は違うな、と削る事も、順番を入れ替える事も、文章を足す事など、どう表現したらより的確に伝わるだろうか、と試行錯誤できるタイミングはあります。
    感情は捨てきれないものではあると思いますが、ここでは、その感情を文字にする事によって一歩引いて見る事もリアルタイムな会話より容易なのです。

    先ほどの例えに戻りますが、ライブDVDを買ったのに、その時々によってスポットが流れたりフルコンサートが流れたりするDVDは、使い勝手がいいとは言えません。ちゃんとメインメニューでオールプレイなのか、特典映像のスポットを見るのかを切り替えられる方が、私は使い勝手がいいと思いますよ。

  • 効率的なやり方がなんなのかは自分なりの考えがあるのですが、
    その辺はやはり楽しんでしまいます。
    結局価値があるのか証明できない以上、
    私は楽しんでいる自分の方が好きだからです。
    とはいっても、意識的に楽しむようにしているのか
    無意識に楽しい方にいってしまうのか、
    自分でも断定はできませんがね。
    それこそ思考なんて無意識に行うものなので、
    意識的に楽しまなければ生きるのがつらくなってしまいますから。
    結局は好奇心ですかね。

  • いえ、私は、主題から脱線する事が問題なのではなく、主題から脱線する、主題に添う、という事を自力で選択出来ない事が問題なのだと、感じています。
    相手に何を伝えたいのか、というのが、ぼやっとしてしまいますからね。

    言葉を重ねるのは、好奇心ゆえ、でしょう。
    好奇心を持つことは楽しい事ですし、追求する上で好奇心は前提条件ですよ。
    好奇心を持つ事は制御できないと思います。が、その好奇心を表現する事は制御出来ると考えています。

    例えば、中学生でお酒に興味を持つ事(主題とは関係ない、新しい考え方をおもしろいと思う気持ち。)について、禁止は出来ないと思いますが、その好奇心を表現する事、すなわち、未成年者の飲酒(主題とは関係ない新しい考え方についての議論。)は禁止出来ます。
    例えに使ったのが法律に触れる事なので、主題から離れる事がいけない事のように感じるかも知れませんが、そういう事じゃないですからね?(笑)

    そんな感じで、より多くの表現方法を身につけると、より、豊かな感覚を持てますよ。
    まあ、僕も全然、発展の途上に居ますけどね?



  • ひとつのことを探求するのは意識しなくてもやってしまうので、時にはいろいろなモノを見て回ります。
    こんな感じですかね、結局は。

  • ああ、そういう事だったんですね、失礼しました。
    意図的とは知らず、それを薦めるとは(笑)
    てっきり好奇心の赴くまま脱線し、そちらの方が楽しいし、好奇心ゆえの結果なので、至極当然、と胡座をかいたような印象を受けてしまったので、私は、「なんだとぉ?」と、いささか固執してしまいました。
    いやはや、お恥ずかしい限りで(笑)
    他人に思考を伝えるのは、難しいですね。
    まあ、そこがミソでもあるんですけどね。

  • なんかすんません。。。