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社会における希望と絶望のパラドックス

今日の社会では希望という言葉をよく目にする。
だが親や友達や社会から与えられる希望という言葉は中身がなく、
イメージをそのまま意味として定着させたような、そんなモノだ。
希望を捨てるな、希望を持て、絶望するにはまだ早い。
これらの言葉にも、意味は無いように思える。
それこそ希望という、輝かしいイメージと何も変わらない。
イメージ、印象は大切だ。
だがそれだけでは、本来は善と悪の基準にはならない。
もし希望という言語に意味を持たせるとすれば、願いが妥当だろう。
では希望とは、願いとはなぜ生まれるのだろうか。
我々が希望を強く意識する時を思い出してほしい。
その時は、きまって絶望の中にいる時ではないだろうか。
強い絶望の中にいる時こそ、
我々は希望を強く感じることができるのではないだろうか。
すなわち希望とは、絶望があるからこそ存在を感じる事ができるのだ。
では絶望とは、どんな時に感じるモノなのだろうか。
例えば、自分の力で確実にこなせる事をやっていても
達成感しか得られないだろう。
つまり絶望を味わう時とは、
自分の力の及ばない範囲に挑戦をした時なのだ。
最初の挑戦は成功しても、その一段階上、
さらにその一段階上と挑戦していけば、
いつかは自分の力を超えた挑戦をすることになる。
その時の失敗が絶望をもたらすのだ。
つまり絶望とは、挑戦した証のようなモノなのだ。
では社会が言うように、絶望を捨てたとしよう。
それは何事にも挑戦せず、
希望を捨ててしまう事を意味するのではないだろうか。

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