0

大人論(加筆訂正版)前編

 四十過ぎても結婚しない男がいた。結婚してもいいなとは思っていた。よさげなのがいれば。そのよさげなのが問題だった。しとやかだが、堂々とした美人で、服の趣味がよく、男性経験はない。自分だけを愛してくれて、若くて、働き者で、立ち居振る舞いが美しく、箸づかいがきれいな女性。
 こんなお花畑な理想に対し男は、不細工で貧乏。怠け者で酒好き。多趣味だが仕事にできるほど達者ではない。結婚したかったら適当なので妥協するしかないレベルだった。だが男は妥協しない。男にとって妥協は大人になることを意味していたからだ。男はいつまでも子どもでいたかった。
 1954年の刊行物、『四十男の結婚』からの抜粋である。わたしはこの文章を読んだとき、月並みな表現だが、はっとさせられた。理想に合致する異性と出会えることはないにしても、本気の恋愛をし、結婚するぐらいな妄想は十代ぐらい(二十代もか?)だったら当たり前だろう。だがそんな幸運に恵まれる人間がこの世にどれくらいいるだろうか。わたしはきっぱりゼロだと言い切ってしまう。なぜならわたしは、常識的な四十代だから。
 プレイボーイというのがいる。ーー話に脈絡がないように感じられるだろうが着地点は考えてあるので我慢してお付き合い願いたい。ーーわたしは以前、男は女を選んでいるつもりでいるが、実は女に選ばれているだけだと何かで書いた。選ばれることに躊躇のない男。つまりそう。これは自分の立場をよく心得ている男。妥協のできる男である。プレイボーイは理想など追ってはいない。きわめて現実的な種類の人間。大人なのである。
 わざわざ言うまでもないが、こうした投稿サイトの投稿者には寿命がある。学業、現代的友だちづくり、現実的恋愛、就職等の社会制度に絡め取られ、妥協、迎合することを余儀なくされるからだ。プロのアーティストやクリエイターの道に進んだところで、それは趣味の死を意味するわけだから制度への帰属と同じことだ。逆説的だが、妥協とは、リアルを充実させるための代価なのだ。

レスを書き込む

この書き込みにレスをつけるにはログインが必要です。