会社帰り、ふと足元を見ると、仰向けになった油蟬に、無数の蟻がたかっている。行政が動くまでもなく、現代でもこうして、自然の分解者の活躍により、死体が処理される。
けっこうよくあるのだが、まだ息のある状態なのに蟻がたかっていることがあってつい自分と置き換え、こんな死にかたは嫌だなあなんて思っちゃう。
自然の分解者というと、まず蠅とバクテリアが頭に浮かぶが、蟻の貢献度は蠅に匹敵するか場合によっては凌駕すると思われる。
アスファルトで死んでいる蝉はふつう雄である。雌は土の上で死ぬ。なぜなら雌は卵を産まなきゃならないからである。アスファルトに卵は産めない。雄の発声器官に当たる部位が雌の産卵器官になる。ネットで調べてみよう。カンのいい人なら即座に見分けられるようになる。太古、蝉は雌も鳴いていたとむかし、何かで読んだ。
ところで(何がところでだ)蝉は成虫になってから一週間しか生きられないというのは蝉の飼育法が確立されていなかったがゆえの誤解である。種類によって差はあるが、実はけっこう生きる。もっとも天敵にやられることを考慮しなければの話。
死ぬ前に交尾し、子孫を残せる蝉はごく一握りだ。精いっぱい鳴いても交尾できない雄もいるし、産卵前に食べられる雌もいる。土の外に出るのが遅すぎてパートナーを見つけられなかったなんてケースもある。
だから何だ? 子孫を残せなくても子ども時代が長かったんだからそれでオッケーって考えかたもある。現代日本人なんてまさにそれじゃないか。
話がぶれた。運も実力のうちというが運は実力なのだ。いや、すべては運のなせるわざ。努力できるのも努力できる遺伝情報が運良く発現したおかげ。努力とニーズが合致したおかげだ。実力なんてものは存在しないのだ。
とりとめもなく、蝉について。