私は、あると思います。
理由は、以下の通りです。
1.お題の解釈について
お題を考えるに辺り、言葉の定義を次の通りとして考えました。まず主観ですが、これは主体(この場合書き手である私)から見たもの全てとします。つまり私の意識を通して認識された全てのものです。また、縛られないという言葉については、「限定されない」とします。「影響を受けない」だと曖昧だし、そのまま捉えると如何様にも解釈可能なためです。そして、価値について、これは「誰かのためになり得る要素」とします。例えば美という価値は誰かにとってこころの安らぎとなり得るし、少し汚いですが排泄物等でも肥料として使えるため、価値があると言えます。
2.主観に縛られないものの可能性について
主観に縛られない、つまり私を通して認識されることによって限定されないものがあるかどうか、考えてみます。例えば花の色は、私から見たときには黄色く映るものでも、蜂や他の生物から見れば違う色に見えます。花の色は、私に認識されることによって色を限定されているのではなく、他者の認識によって変質されています。つまり花の色は、私という主観から認識され得ない色を持っているということになります。なので、主観からでは認識され得ないものがこの世界に存在するということになります。
3.主観によって縛られない価値について
主観に縛られないものがあるとしましたが、それは価値についても当てはまるか、考えてみます。価値というのは、前述で定義した通り、「誰かのためになり得る要素」としました。先ほどの花の例で言うと、花の色の美しさはこの価値の定義に当てはまります。花の色という価値は、主観を通すと限定されてしまうのかというと、そうではないと言えます。なぜなら、この花の色という価値は、他者から見たときに私にとっての価値と違う捉えられ方をするからです。例えば、黄色い色は私にとってはあまり良いと思えない色ですが、他の人から見れば幸福のサインと捉えられる可能性があります。つまり、花の色という価値は、私の認識を通すことによって限定されないものと言うことができます。
以上から、私は主観に縛られない価値はあると考えます。
そもそも蜂や他の生物もあなたの主観上の存在でしかないって可能性も
あるんじゃないですか?
色などの情報もさることながら、
そもそも他というものが実在なのかどうかが不明だと思います。
結局主観上でしか語れないと思いますが…
主観について言えば
それが自分以外にもあるかどうかがまず不確定だと思います。
仮に自分にしか主観がないのなら
現象の価値は主観者の価値観そのものと解釈できますが、
その場合主観者の消滅は価値の消滅を意味するため、
それが価値足り得るとは言い難いです。
西藤ブルーレンジャーさん 他者の存在について、デカルトの超強力な懐疑主義は中々否定できないなあとは思いますが、少なくとも哲学の議論上では自己存在の証明から、「どうやらこの認識している世界にはルールがあって、それは他者らしき者も共有しているぞ」、「他者らしき者達と共通して認識しているものはあるが、全てが同じではないぞ」というところまで少しずつ進歩してきていると思います。この、「全てが同じではないぞ」という部分に立脚して今回の理由を作っています。
また、価値について、主観に価値観があるのなら、価値足り得るかの議論をするより、価値も存在すると考える方が自然ですね。卵が先か鶏が先か、みたいな議論になりますが、どちらにしろ卵も鶏も存在することは確かです。
レスありがとうございました!
自己存在が証明できる説があるんですね。
それって具体的にはどうゆう証明なんですか?