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お元気ですか?

今日来てみたら、SOL!用語集が更新されていて、しかも見やすいし、わたしが卒業してからの用語もたくさんあってビックリしました笑笑

わたしの在学中の用語は今でもわたしの心の支えです。
懐かしくもあり、こうして残してくださっている職員の方々に感謝もうしあげます。

ありがとうございます。

わたしは年末年始から三が日にコロナ陽性症状が出て、2日後くらいに検査キットで陽性が判明しました。今は療養解除して仕事にも復帰しましたが、声枯れがまだ少し残っています。

療養期間が終わっても、症状は少なからず残るのだなと思っています。わたしの場合は喉を完全にやられて鼻づまりなども酷かったのですが、

みなさんいろんな支援制度があるので、調べたりしてみてください。絶対に、公式とかの、ちゃんとしたところで見聞きしてみてくださいね。

ぺえ教頭の生徒へのメッセージも読みました。

ぺえ教頭の想いの言葉だなぁと思いました。

これから真冬になるので豪雪地帯の生徒ちゃんも、そうじゃない生徒ちゃんも、心身ともにご自愛ください。

今はいつ、どこで異常気象になるかわかりません。
どこでもあると思います。

我が校には海外在住の生徒ちゃんも居たりしていたと思います。
できそうな準備を、少しだけでいいので
無理しすぎないように気をつけてくださいね。
自分の体と心を、どうか大切に。

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今の此処の生徒ちゃんたちへ。

わたしは2008年の10月くらいから聴いて、書き込みし始めたのが12月くらい。そして卒業したのが2016年の8月、未確認フェスティバルに2度目に行った後の、元生徒ちゃんです。
【生徒ちゃん】っていう呼び名はこの学校独特で、今使われているかどうかは知らないのですが( ˙-˙ )

私はこの学校に入学したのが23、24歳の時でした。
いろんな出逢いがありました。
いろんな別れもありました。

この学校は2005年の10月から創立されましたね。たしか3日だった気がするけど、違ってたらごめんなさい。

海賊先生という職員さんと、初期の職員さん、当初の生徒ちゃんたち。ほんとうにほんとうにいろんなことがありました。

この学校は生徒だけでも職員さんたちだけでも、講師の先生たちだけでも成り立ちません。

いろんなところのひとたちと
いろんなところで関わりながら、支えながら、時々ぶつかりながら成り立っています。

生徒ちゃんになって書き込みし始めた頃、わたしは午後から4時間くらいの福祉関係の仕事をしていました。

だから日付が変わる頃まで聴いても、なんとなく大丈夫だったのですが、

今は午前中4時間の、医療系の一部のお仕事をしています。なので翌日休みでもない限り
なにかきっかけなどがない限りは聴くことがなくなりました。

未来の鍵をみつける、探す学校に来て
未来の鍵をみつけ、今のわたしが居ます。

わたしがこの学校で見つけた鍵、探した鍵はひとつではありません。

わたしが入学してから在学中にあった大きな出来事は2つくらいあって、ひとつは大切な大切な仲間の生徒ちゃんが空に行った事と、東日本大震災でした。

その時に目と耳と心で聴ける、情報を知ることができるこの学校の存在が

当時のわたしにとって、物凄くいろんな気付きを与えてくれた事が今のわたしを作っています。

自然災害も新型コロナウイルスも、そして個々の
家庭環境、それ以外の環境ときっと自分自身と
向き合い、戦いながらも、どうかじぶんの心にとって嬉しいことをなるべくたくさん発見してみて下さい。
他人を傷つけたり笑うのではない
心に嬉しいこと。じぶんが惹かれること。たくさん発見してみて下さいね。

すのーどろっぷより。

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現役生徒に戻ったみたいなう

何年ぶりかのように、掲示板を数分おきに見に来たりいろいろ校内をみています。


10年前の今日から3日後の3月14日に、

SOL!が再開しました。

ラジオも携帯も。そう、当時はスマホじゃなくて、携帯電話でした。

必死にみんながつながろうとしてて、

どう声をかけていいのか迷って、


大人生徒ちゃんたちがほんとうにいろんなところでメッセージくれていたりして。


それでも最初のやしろ教頭の「待たせたなっ!」

に安心したのと待ちわびてたのともういろんな感情があって


放送最後のことばも、ほんとうに心に在るし。

二人と、この場所、他の職員、生徒たち、講師の先生たち

言い出せばきりがない。

ラジオとは。緊急時とは。大人とは。心とは。

生きるとは。

結構当時はドライバーさんたちの話を、書き込みとか逆電で聴いたりして

道のありがたさとか、運転手さんのありがたさとか

今まででのライフライン、水、食料、電気、ガス以外の物事に意識が向いたのをよく覚えています。


ラジオは耳が聴こえる人にとっては、ありがたいツールかも知れない。

ツイッターは目が見える人にとっては、ありがたいツールかも知れない。

それでも、決していいことばかりでは無い。

極限状態に陥った時は特に。


過剰な情報提供はかえって不安だったり迷惑だったり、過剰な心配もあったり。

中越地震の時に手話サークル関係で被災者の方にに情報提供などをするお手伝いをしていて、

当事者の方に指摘されたことを機に、3.11ではそういうことをしませんでした。

文字も音声も図も映像も。はたまた他の手段も

需要はあるのだから、その時によって、違う伝達方法はあるのではなかろうか。

そんなことも、意識できるようになりました。

電池残量も心配してたよね。

この辺って実は

結構葛藤しちゃうんだよなあ。





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わたしの10年。

とーやま校長が就任してから1年経つ前のできごとでした。

当時必死に、この掲示板教室で、そう、まさにクラスメートの安否を確認していました。

繋がりづらかったけど、職員さんがほんとうに掲示板動かしてくれていて、


いろんな、ほんとうにいろんなおもいで溢れかえっていたこの学校。

忘れもしない。

今も安否のわからないここの生徒も居ます。


でもここに書いたら、何処かで繋がるかも知れません。

そんな気持ちで、此処のOBとして、書き込みにきました。


わたしは今、一旦離れた福祉職の、障害者雇用枠という雇用形態で裏方のお仕事をしています。

しかし現場は福祉施設ではありません。とある種類の病院です。

先日職場では防災訓練が行われました。

わたしは勤務時間の関係で参加できませんでしたが、できれば参加したかったです。

此処のいろんな、郊外授業に、いろんな理由で行けなかったわたしは、2015年の8月にようやく未確認フェスティバルに参加することができました。

職員のみなさんにも、此処の生徒ちゃんたちにも
会うことが叶いました。いつもレスをもらっていたひとたちです。

その時、誰と会えるか。それはもう、その時しか有り得ません。

此処に来たばかりの24歳の頃はものすごく何に対しても怯えていて、臆病で卑屈でした。

わたしは20歳になる前の年に生死を一度彷徨い、20歳になってからしばらくして、中越地震を体験しました。

絶望になった10代最後からしばらく、いろんな葛藤もありましたが、わたしは今を生きることができていて、それはとてもありがたいな、と

思えるようになってきています。

いろんなことがほんとうにほんとうにある中で

じぶんで考え、時にはだれかに聴いてもらい、

そこからどうにかこうにかじぶんの考えが定まっていくことができることを、願ってやみません。

10代のみなさん、10代になる前のみなさん、
10代以降のみなさん。

年を重ねる事は、必ずしも悪いことばかりではない。にんげんは、ひとりのようでひとりじゃないし、ひとりじゃないようで、ひとりだと私は思います。

みなさんのラジオネーム、たいせつにしてみてください。