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久々にしんどいです。

今日私の所属している鳥人間チームのワークショップがあったんです。チームのこれまでと今後を振り返る的な。そこでリーダーの子が情熱的に話し始めたんです、チームを引っ張る2年生、積極的に協力してくれる1年生、なんだかんだ言いながら支えてくれる3年生。私は2年生でチームを引っ張っていくべき存在なんですけど、今年はそれが出来なかったんです。2年の中心メンバーが一丸となってチームのことを考えている中、私は去年度の大会後に下がってしまったモチベーションを高めることが出来なくて、その輪に入って行けなかったんです。そしたら今年の機体の製作でも全然ついていけなくて、1年生に教えてもらう場面なんかもありました。制作になかなか参加しなかった自分が悪いって分かってて、でもそれがさらに首を絞めてそういう状況を作り出して、もうしてる事が1年目と変わらない現実に絶望して、鳥人間本番の会場でも去年みたくあのプラットホームに立っても高揚感とかワクワクが去年ほどはなかったんです。そうしたら、自分の存在意義が分からなくなったんです。なんのために私はこのチームにいるのか、自分がこのチームにいる意味がわからなくなったんです。そこからはずっと泣きたい気持ちでいっぱいになってしまって、ワークショップの後にあった打ち上げもキャンセルして帰ってきてしまいました。
もしかしたら鳥人間以外に大事にしたいものに出会えたからこんなにモチベーションが下がってるって説ももちろんあると思います。でもそれを認めてしまうともう二度と鳥人間に対して憧れを抱けない気がするんです。鳥人間の青春感とか、琵琶湖に立った時の高揚感とか、それに憧れて鳥人間に入った自分を否定してしまうようで、嫌なんです。もうどうしたらいいのかほんとに分かりません。でもこれは自分で出した答えじゃないと納得できない気がします。
長々とすみません。

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「推しは好きでも、推しに依存する自分は嫌い」 

こんなこと書きこんでいいのか分からなくて、でも誰かに聞いてほしくて、分かるよって言ってほしかった。今日のテーマに背中を押されました。書きます。

 私には推しがいるのですが、最近自分の生活や趣味が全部その人を基準にしてしまっている気がして息苦しさを覚えたんです。自分は全然興味のないことなのになぜか興味がわいてしまって、でもその興味はあくまで自分ではなくて推しの興味であって、私はそのものの奥にただ推しを見ているだけなんです。
たとえば「推しに影響されて私もこのバンド好きなんです」とか言ったら本気でそのバンドを見てないからそんな「好き」なんてそのバンドに失礼だし、なによりふと我に返ったときに本来の自分の趣味とか精神的な軸とか、とにかく「自分」というものがどんどん空洞になっていく感覚があるんです。
 だからほんとにここ2,3日はちょっと推しから距離を置いていて、自分の好きな音楽を聴いたり生活の質を異常に高めたりして、少し自分の内側に目線を向けて大事にしていました。実際少し自己肯定感が上がった気さえしてます。でも、私は学校に友達がいないんです。分かち合って、共感して、さらにその世界を広げてくれる人がいなんです。だから寂しくなっちゃって、全力で推しを推せてた間は一人でも全然平気で、気づかない間に推しに依存していた自分に気づかされました。
 でもその推し本人は新しい趣味を人と分かち合って順調に自分の世界を広げているから、それを見てちょっとむかついちゃったんです。妬ましさとでもいうんでしょうか、推しに対してこんな感情を持つなんて、もう自分の中ではありえないほどの衝撃です。最近は本当にこの悩みでこんな風に感情が二転三転してます。
 別に推し疲れて推すのをやめたいというわけじゃないんです。今でも変わらす大好きだし全力で応援したいし、11月のライブはもうめちゃくちゃに楽しみにしてます。
ただ「推しは好きだけど、推しに依存する自分は嫌い」という現状です。

推しって何なんでしょうか。自分を大事にしつつ推しも応援できるような、適切な距離感って何なんでしょうか。これを誰かと徹底議論したいです。ご意見お待ちしております。