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あの日に変わった私の頭の中

こんばんは。

僕の頭の中が変わった日は「2月28日」
北海道独自の緊急事態宣言が発令された日です。
そこから小中高合わせて9年間変わらず過ごしてきた日常が変わってしまった日です。
最初は「まぁ、これが終わればまたいつも通りになるさ(笑)」と思っていたのですが。
そう簡単にいきませんでした。
3月19日には独自の緊急事態宣言は解除されたのですが、学校はそのまま春休みに突入。
お世話になった部活の先輩方に挨拶する事も、転勤してしまう担任の先生に別れの挨拶すら言えず2年生に。
しかし、僕の家族は「この状況は行かせられない」と判断し自主休校を選択。
学校も新学期になって僅か数日。
今度は、国が出した緊急事態宣言で2度目の臨時休校。
6月まで休校になり、みんな不安の日々でした。
そして、6月。最初は分散登校として登校していましたが、僕は自主休校を継続。
ようやく行き始めたのが7月6日。
2月の臨時休校から約5ヶ月が経った時でした。
不安でしたが、無事に友達も出来て少し日常を取り戻せたかなと思ってますが…。
やはり「マスク」をしていない人は物凄く気になってしまいます。
コロナが流行る前は全然気にならなかったのに…。
本当はマスクを外して色んなところ行きたいけど行けない。
親の収入も減り、お小遣いが無期限で0円の状態になってしまいました…。
まだまだ苦しい状況が続きます。

あんなに毎日憂鬱だった「日常」か愛おしくなった日でもありました。

来年は高校三年生。高校生活最後はみんなでマスクを外せて笑って過ごしたいなと思います…。

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変化の令和2年

こんばんは。
僕の令和2年は「変化の令和2年」でした。
令和2年になって早々新型コロナウイルスが蔓延。
それにより2月には北海道独自の緊急事態宣言が発令し学校は休校。
休校が延びに延び、分散登校が始まったのは6月。
しかしまだまだ新型コロナウイルスは蔓延していました。
あまりに不安でした。なので親と学校に相談して「自主休校」という決断をしました。
学校側も考慮して欠席扱いにはならない「出席停止」という扱いにしてくれました。
しかし、学校側は「いつ来るのか?」という催促が止まりませんでした。
それに耐えきれず7月頭に学校に登校を再開。
しかし、クラス替えもあったので周りは「お前誰だよ」という雰囲気。
友人もなかなか作れず、とても辛い学校生活。
みんなと約1ヶ月の勉強の遅れを取り戻すのも大変でした。
そんな中、放送局長に任命。
4人入ってきた後輩のためにも責任感が増し、勉強の遅れを取り戻しつつ放送局長として必死に頑張りました。
おかげで勉強の遅れを取り戻し、成績も好調。
ようやく何とか安定してきた感じですが…。
まだまだ不安もあります。
親の収入も大幅に減り生活もギリギリ。
学校は長期休みを半分にしての学校生活。
精神的にも肉体的にもかなり辛いです。
環境が大きく変化した1年でした。

でも、ラジオを聴いていたのでそこには変わらない日常があったかなと思います。

来年はみんなで笑って過ごせる1年でありたいです。

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コロナ不登校でした……。

僕は、高1の2月末の北海道独自の緊急事態宣言の休校から新学期になって3ヶ月経った7月6日まで自主休校をしていました。
理由はコロナが怖いから。
学校には「親に呼吸器の持病がある。」と嘘を付いて出席停止の扱いにして貰いました。
もちろん親もコロナが怖く、子を学校に行かせたくないという意見が一致してやった事です。
そうしないと公欠にはならないのです。
ということは進級が出来なくなる。

最初は良かったのですが、「早く来いや」という雰囲気の学校からの圧力で仕方がなく学校に行き始めました。

学校に行く時は無茶苦茶怖かった。
新しいクラスメートとも話したこともなかったから。
学校に行っても「お前誰?」っていう雰囲気が流れてた。膝が震えてた。けど、高1の時から同じクラスだった子と話して少し楽になり。次第に他のクラスメートとも仲良くなった。

でも、中には僕の事を気に入らないと思って大声で僕の悪口を言う奴もいる。
今でもいる。正直言って辛い。周りの視線が気になる。
だけど、それに文句を言っても他人は変わらない。
だから僕は自分の好きな所で味方を作る事にしました。
例えば、このSOLの皆さんだったり、他のラジオリスナーの方々だったり。
自分と同年代がダメなら、年上の人に頼る。
僕達より遥かに人生経験豊富で的確なアドバイスをくれる。
同年代の友達が出来なくても、味方は絶対にいると思います。

みんな辛いこともあると思うけど「見方」を変えれば「味方」が出来る。

お互い乗り越えていこう。長文ごめんなさい。