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旋律 #2

 私たちが幼稚園に行くと、誰からともなく園庭に飛び出してきて貴方を囲んだ。アイカちゃんは強引にみんなを押しのけ、嬉しそうに貴方に抱き着く。そのとき、ちらっと隣の私に視線を流すのが、なんとなく嫌だった。
 それでも私が貴方と幼稚園に行くのを喜んだのは、去り際に、その指輪のいっぱいついた手で頭をなでてくれるからだった。指輪のごつごつとした感触さえも愛おしく、貴方のことがより一層大好きになった。
 そして何より、私が知る限り貴方は、私以外の子の頭を撫でなかった。なぜかは分からなかったけれど、自分は特別なのだと思えて嬉しかった。

 「ねえ、律ちゃん、ちょっとずるいと思うんだけど」
みんなが砂遊びをしている中、アイカちゃんは私を一人呼び出した。もっともらしく、わざわざ園舎の裏に。
「なにが」
彼女の腰に手を当てる仕草がなんとなく気に障り、分かりきっていることを聞いた。
 「蓮と一緒に幼稚園来たり、頭撫でてもらったり。ずるい、ずるいよ」
目に涙を浮かべるアイカちゃんは、悔しくも今思い出せば可愛かった。
「そんなこと言われても困るよ」
聞こえないように、小さく呟いた。
「とにかく、蓮とお似合いなのはアイカなんだから。蓮はアイカと結婚するの」
アイカちゃんは言ってやったと笑っていたけれど、私の頭は、砂場に残してきたお気に入りのスコップがとられてはいないかという心配でいっぱいだった。
 「そういうことだから」
アイカちゃんはフリルのついたスカートを揺らしながら駆けていった。

 「結婚…!」
改めて彼女の言葉のダメージを受けたのは、お弁当を食べているときだった。
 きっとあれが、初めて人を憎いと思った瞬間だった。周りが呆れるほど、のんびりとしていておおらかな子どもだった。そのせいで、要領の悪いことをしてしまうこともしょっちゅうだった。
 でもこの時、私は確かにアイカちゃんを憎んでいた。
 恋する乙女心というと聞こえはいいが、実際人を憎んで羨んで、愛する気持ちはもしかすると半分もないのかもしれない。と言っても、それはある程度成熟した人間の話だ。当時の私はまだまだ純粋だった。貴方を愛する気持ちだけでできていたといっても過言ではない。そう思っていた。

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旋律 #1

 近頃よく、貴方と居たときのことを思い出す。十年ほど前だろうか。私は幼稚園に通っていた。当時のことはほとんど忘れてしまったはずなのに、貴方のことだけははっきりと覚えている。
 それは、蒼い月の光にかざして見るガラス玉のようにくすんで。でもしっかりと、私の脳裏にへばりついて離れない。

 貴方が通っていた高校は、県内で唯一音楽科があり、楽器や施設の設備が整っていた。貴方は普通科だったけれど、何度もメンバーチェンジをしながら細々とバンドを続けていた。ギターボーカルを務める貴方の声は美しかった。
 顔立ちは整っていて、面倒見もよく優しかったから、相当女の子たちには人気だったのではないだろうか、と今になって思う。
 そんな貴方が私の名を呼ぶたび、私はなんだかくすぐったくて、もう一度呼んでとせがんでは貴方を笑わせていた。

 貴方は二年生になると、時々授業を休むようになった。当時の私は特に深く考えず、幼稚園への送り迎えを母に頼まれている貴方を見て、一人飛び跳ねて喜ぶのだった。

 「律、幼稚園行くよ。かばん持って」
貴方は私に話しかける時、目元を崩してはにかむように、それでもどこか泣き出してしまいそうな不思議な笑みを浮かべる。それは、私が一度だけ見たことがある、貴方が学校の友人に見せていた表情とはまったく違うものだった。
 「ちょっと待って」
私は玄関に居る貴方に聞こえるよう、リビングから大きく呼びかけた。
 貴方は私を待つとき、その派手なスニーカーのつま先で玄関のドアをとんとんとつつく。その時の表情がなんだか可愛らしくて、私は度々わざと玄関で待たせた。
 
 幼稚園に行くと、貴方は私の友人たちからも人気があった。その中でも一際印象に残っているのは、アイカちゃんという私より背の高かった女の子だ。
 その子は生意気にも、貴方のことを「蓮」と呼び捨てで呼んだ。貴方はとくに気にしていなかったけれど、私はそのことが不満だった。
 ほとんど生まれたときからそばにいた私も、「蓮くん」と呼んでいたのに、どうして数か月前に出会ったこの子が呼び捨てなのか。まるで恋人みたいではないか。子ども心にそう思った。