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中学2年生だった私。

あの日の私は山形県に住む中学2年生。体育館で卒業式練習をしていました。震度6強。恐怖。不安。泣いてる子もいました。家に帰ってテレビを見て、唖然としたことを覚えています。行ったことある街の信じられない様子がテレビに映っていて、信じたくなくて目を背けた。全然見れなかった。怖かった。子供だったこともあるけど、行動を起こすどころか、ただただ怖くて何も考えないようにしていました。
数ヶ月経ったある日、冬の日、ストーブの前で見ていたテレビで震災時に避難所でやっていたコミニティラジオのスタッフさんたちのドキュメンタリーをやっていました。あの日、被災者のために情報を発信していた人達も被災者だという当たり前のことに気付かされました。突然の震災、足りない情報、続く余震、不安に思いながらも、ラジオの向こう側の人達のために明るい声で優しく話しかける。裏で涙を流しながら電波に音を乗せる。避難所の人達に元気と勇気を与えるために放送していない時間もお話ししたり音楽をかけたりする。
私が怖くて目を背けていた時に、涙を堪えて勇気を振り絞って笑顔で明るく、周りの人々に、ラジオの向こうの人々に安心や日常を届け続けていた人々がいたことを知りました。それを私はぼんやりとだけど、目指す姿を見つけました。
今、私は大学を卒業して目指していた場所で社会人をしています。もうすぐ2年が経ちます。まだまだ目指す姿には程遠いです。でも、少しずつ、ひとつずつ、近づいていきたい。その気持ちだけは忘れず、変わらず、これからも生きていきたい。大好きなことを楽しみながら頑張る毎日を大切に過ごしていきたい。
これからも、ラジオと一緒にがんばる。

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2011.3.11

東日本大震災当時、私は4歳で宮城に住んでいました。
地震発生後、保育園から引き渡されて母と1歳だった妹とともに帰ったのは、物が散乱して天井にひびがたくさん入った家。もちろん電気や水は通っていませんでした。幸い私が住んでいた地区は津波の被害がありませんでしたが、たまたま父が出張中で、帰ってくるにも道路が寸断されていたり交通機関が止まっていたりしたので帰って来れず。。母一人の手で幼い私と妹の世話をするのは大変だったと思います。そこから何日間も水と電気の通っていない生活が続き、やっと水を供給してくれるトラック(?)が来たと思ったら7時間待ち。幼い私たちを連れて7時間待つことは出来ないので、お風呂に溜めてあった水や近所の人が水を分けてくださったりして、何とか堪え凌ぐことができたそうです。

当時のことは何となく覚えている程度ですが、あれから10年、我が家には常に水のペットボトルや懐中電灯などがたくさん備えてあるようになりました。私も宮城を引っ越してからはこの日について考える機会がどんどんなくなってきてしまっていますが、絶対に忘れてはならないことだと思います。
あの日犠牲になった方々も、元々は私たちと同じように生まれてきています。みんな平等のはずなのに、たまたま東北に居合わせた人を無差別に落としていく地震は憎くて怖いものです。私たちはそんな犠牲になった人たちの分まで、毎日に感謝しながら生きるべきなのではないかなと思いました。

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