ちょうど1年半ほど前中学の修学旅行で
宮城県の沿岸部に行きました。行く前は他の学校が観光地とかに行ってるなかでどうして俺らの学校だけ観光地じゃないんだと思ってました。
でも違った。
自分の目で震災の爪痕が残る海岸を見てたくさんの事を感じた。そして色んな話を聞くことができた。これは今しか出来ないことであって貴重な体験だということを強く強く思った。卒業式の時に全員分の新聞バックを送ってくださって、その新聞バックと卒業証書を持って卒業して1年。自分は高校生になって今日の授業でまた深く考えることができてよかった。
1年前に見た景色は今も瞳に焼き付いています。
読んできました。今の自分達に必要なのは「知ること/伝えること」。復興と並行して。
前に学校の授業で「日本のエネルギーの将来性」を考えた。その中で、「原発は残すべき、ただし、より効率的なクリーン発電が可能になると並行して減らすべきであり、その究極は宇宙太陽光発電だ」と書いた。それは、強烈な磁気嵐やフレアが直撃しない限りほぼ無限に軌道エレベーター等で電力供給が可能だから。今からするとオーバーテクノロジーの領域だ。軌道エレベーターが特に。
そして、復興を妨げる最大の要因は支援ゴミの問題だと思う。本人は利他的に動いてると錯覚する。ただ、それはあくまで自己満足。需要がないものを需要があると錯覚する。本気で支援したいのなら、一歩立ち止まって考えることも必要なのかもしれない。
5年経った今、残酷な時間の中で人は記憶を無くしていく。だからこそ、各々が一瞬でも考えること、それが辛いなら生きる事。SOLにだって亡くなった人はいるかもしれない。だったら、その人達の想いも背負って生きなきゃいけない。長文失礼しました。
あの日から何ヶ月か、震災関連の新聞記事を切り抜いてスクラップしていた気がする……あれまだ残ってるかな、もう一回読んでみよう
私は新潟にいました。
小学4年生の頃でした。
勉遊していたら地震が来ました。
かなりの揺れだったので気持ち悪くなってしまいました。
おさまった後、体育かんに集まって友達と怖さを紛らわすために遊んでいました。
すごく怖かったのを覚えています。
避難訓練とかしてる時、絶対地震なんて来ないだろって適当にやっていました。
でも、こんな大きな地震が来て、避難訓練は大事だなと思いました。
新潟県は大きな被害はなかったと思います。
でも、隣の県では大変な事に。
複雑な気持ち。
今日は卒業式でした。
友達と先生とたくさん泣いて笑って楽しかった。
泣きすぎたな…(笑)
卒業式を同級生みんなでできたこと、卒業式が自分たちの学校の体育館でできたこと。これはあたりまえじゃない。私達はしあわせだな。
自分のいた長崎でも津波警報が出ていました
さらに震源に近いところの影響は本当に想像さえ出来ないです
想像することもおこがましい気がして。
五年前の明日、学校にいました。みんなと勉強している時に揺れに襲われました。そして今日は、その仲間と別れる日でした。小学校から持ち上がりで苦楽を共にしてきた仲間。そんな仲間と別れるのは、寂しいけれどもまた会えることを信じてます。そして、岩手宮城福島が1日も早く復興できることを願います。
東日本大震災から5年か・・・あれ以来いろんな起きることになったけど。当時の政府の対応は余りにも酷くて。国を運営する責任を持てるのは本当にごく一部しかいないというのがはっきりした。その後、政権は変わったけれど東北の復興に関してはどうなっているのか自分にはまだよくわからない。でも、ごく一部の映像を見る限り余り変わって無いように見える。一朝一夕に終わる問題じゃないだろうけど。国も数年間の見通しを発表したりとかしてるのかな?知っている方是非教えてください。
あの日から5年ですね。「もう」5年なのか、「まだ」5年なのか、どう言えばいいかわからないけれど、当たり前のことを当たり前だと思ってはいけないんだと思います。当たり前のように支えてくれる家族、当たり前のように仲良くしてくれる友達、当たり前のように叱ってくれる先生。そういう大切な人に今伝えたいことは今伝えなくちゃいけないんだ、と強く思いました。明日がどうなるかなんて誰にもわからないから、「ありがとう」も「ごめんね」も「大好き」も今日言わなくちゃいけないと思います。