今年で5年、あの日と同じ金曜日に3/11を迎えるのかと思うと何か複雑なものを感じます。
あの日は先輩を送り出す準備をして下校している最中でした。
あの瞬間のことは今でも思い出せる、生涯忘れることはないと思います。
自分は内陸にいて、生活する環境で重大な被害はありませんでしたが、体調が悪くなったり身体には不調が出る期間が長くありました。
今は体調も回復していますが映像、写真を見たりすると揺れを思い出すこともあります。
最近はTVでもこの時期に思い出したように震災の映像が流れていますが住んでいる人にしてみれば現在進行形の地元を知ってほしい、声を聞いてほしいと思うこともあると思います。
自分は今はまだできることは少ないかもしれないけれど、いつか、自分のできることで役に立てるようになりたいです。
この時期になると震災の特集が多くなります。地震や津波の映像が流れてたりします。
正直、こういう震災の特集は嫌です。やってほしくありません。
あの時の出来事、思い、苦しみを思い出したくないんです。
その時理科の授業だった。先生が「大きい地震はいきなり揺れるから大丈夫」と言っていた。私もそう思っていた。だけどその理念は数秒後に崩れた。今まで感じたことのない大きな揺れで、揺れそのものというより建物が軋む音が怖かった記憶がある。その音は未だに忘れられない。
ここ埼玉県もあの頃は震度5強で揺れました。かなり揺れたのですが、東北では震度8で揺れていたことにゾッとしました。その上、津波の映像を見て、街が流されていることに、とても現実のものとは思えずショックを受けました。
自分はその場に居なかったので、本当の怖さを知ることは出来なかったけど、その場にいた人達の痛みは分かるような気がします。
東北の全ての痛みに黙祷を捧げます。
あの日はちょうど小4の大好きだった図工の授業だったかな?あの時の自分は宮城の気仙沼に毎年の夏に釣りに行っていたから、小5になったらまた行くと友達と話をしていたはず。その時に日本を揺れが襲い、大好きだった気仙沼の街を飲み込む津波の映像を見て涙が止まらなかった…
みんなには、他人事と思わないで被災した人にむけて手を差し伸べてほしい。まだ復興には道半ばなんだ。東北に住む10代としてのお願いです
5年前、中1だった私は、先輩の卒業式に出た後、友達と遊んでいました。
14:46、今まで感じたことのない揺れが襲い、アスファルトが割れたり、お店の駐車場では揺れる車の中に赤ちゃんを抱きかかえたお母さんがいたり、鉄塔が揺れたり…正直、その時何を思っていたのかなんて覚えていません。ただ、感じたことのない驚きと恐怖を覚えたのは間違いないと思います。
それからしばらくは揺れていなくても揺れているように感じたり、実際に大きな余震が来たり。ほんとうにこわかったのを覚えています。
私は海からは離れたところに住んでいるので、津波の被害は受けていません。でもテレビで同じ福島の海岸が津波に襲われるのを何度も見て、唖然としていました。
私は将来、福島で地域行政に携わるのが夢です。どんな形で携われるのか分かりませんが、私は地元・福島のために働きたいです。
そのために四月から4年間、大学で学んできます。
がんばろう、福島。
がんばっぺ、福島。
がんばっぺ、日本。
僕は三重県に住んでて、今でもニュースを見る度に信じられない気がします。でもさっきのトレモロ聴いてて、今止まってた景色が動き出した気がしたんだよって。まだまだ大変だけど、少しでも動きだせるように力になりたいです。大人になっていくにつれてできる事はもっと増えていくはず。その時に役に立てるような人になりたい。
明日であの日から5年
とても早く感じる
僕はあの時中1で体育館で卒業式の片付けをしていた
群馬県でもとても強い揺れだった
今でもあの揺れを覚えてる
そしてこれからもあの日のことを忘れてはならない
私は、クラブチームでソフトボールをやっていました。
私達のクラブチームには、東北からきた子がいました。
自分の育った地を離れるのは、大変だったと思う。
でも、自分達と一緒に一生懸命プレーしてくれて、ほんとにソフトボールも上手でした。
ケンカをしたりしたこともあったけど、本当に明るく素敵な女の子でした。
高校は、県外へ行ってしまいます。
高校でも、ソフトボール、がんばってほしいです。
そして、3.11を忘れません。
絶対に。日本が一つになる。気持ちも。
この世代がこの世の中を変えていかなきゃいけない。大きい小さいじゃなくてやることが大事!
震災があったあの日あの時間は体育をしていて全く知らなかった。
富山県でも揺れたと後で知った。
ニュースでは変わり果てた街、津波に流される家、流れる車、逃げる人々…
映像を見ただけでは同じ日本で怒ってるとは思えなかった。
現実。
テレビでしか見れない世界だけど、やっぱり本当に起きていることだった。
小学6年生だった私たちは相談して募金を募ることにしました。
スーパー、地域の人、全校児童にたくさん呼びかけて少しでも力になれるように精一杯集めた。
あの日から5年。
きっとあまり体験をしていない人にとっては「もう5年」
大きな被害によって悩んだ方々にとっては「まだ5年」だろう。
今でも復興できていないところ、戻らない生活、心の傷……
たくさんの問題がある。
私には何ができるのだろうか。
私の小さな力で東北の明日は変わるだろうか。
明日は、必ず来るわけじゃないんだなと思った。
もしかしたら、明日大切な人を失うかもしれないし、家族を失うかもしれない。だから、今日を一生懸命に生きていきたいと思った。今ある環境に感謝すること。学校に行って、先生に会えて友達に会えて、そういう事が幸せなんだなって思った。あれから、5年なんだなと思った。とても、時の流れは速いと思った。力になりたい。
今を一生懸命に生きたい。失ってから、気づくことが多いなと自分でも感じるけど。全力で、自分に出来ることがあったら協力したい。正直、私は体験してないから、本当に気持ちは100%分からないかもしれない。それでも、私にでもできることがあったら、全力で取り組みたい。
僕はまだ6年生でした
あの日は卒業式の練習で早く学校を終わりいいとも!見ようと帰ったらテレビでは東北の地震の中継が放送していました。
福岡にいたのもあって、ぶっちゃけ他人事のように考えていましたが、同じ日本の仲間だという自覚を持ってからは募金をしたりなど微力ではありましたが、力を送りました、ですが復興はまだまだで、外交も大事だと思いますが、政府にもっともっと復興に力を入れて欲しいと思うし、税金の使い方をもっと考えて欲しい
あの時、自分は小六で、卒業制作を作ってました。いきなり大きな揺れ
男子は自分も含め、ジェットコースターの様だと笑っていましたが、プールから水が校庭に溢れて、その時ヤバイ、ということを悟りました
ニュースを見たら、東北での大きな津波によって家や人が流されてる映像を見て忘れられなくなりました
それからランドセルや、お金を寄付した
……あれから、どれだけのことが自分に出来たのだろう。まだ分からない
でも、自分に出来るのは忘れないこと、そうだと思った
あれから5年
震災や津波で亡くなった人達の御冥福を。そして未だ終わらない東北の復興が、1日も早く終わり、故郷に戻れるように、お祈りしています
長文、駄文、失礼しました
心の拠り所となる存在を失う悲しみはほんとどうにかできるものでもないし、前に進めるわけがないと思います。もし、また心の拠り所となる存在、安心できる生活っていうのが見つかったら大切にすればいいんです。自分の速度で。なぜ焦らないといけないんでしょう?
僕はあの日、小学6年生で学校にいました。あのときに体験した大きな揺れは今でも覚えています。そのとき僕は自分自身すごく怖かったし家族が心配で仕方なかったです。泣いている友達もいました。そのときのことを忘れてはいけない。体験した人が次の世代へ受け継いでいくことが大切だと思います。
5年前のあの日は小学五年生でした。私の学校の校舎は私達の目の前で傾き、ヒビが入り、壊れました。まだあの光景は忘れられません。避難した後教務主任の先生が「見てください。みんなが使っていた校舎は壊れました。でも誰一人もケガをせず避難できました。良かったです。」と言ったのを覚えています。校舎を取り壊す間、校庭にプレハブ校舎を立てて過ごしました。新校舎が出来るまで四年かかりました。東北の方々に比べたら被災なんて大層な言葉は使えないけどとても過ごしづらかったです。私達は校舎一つで済んだけど
被災地の人達はもっとツライと思うとクヨクヨすんなよと自分に思っていました。あれから五年。
早いような、遅いような
小さいころ中越地震を経験しました。
3、4歳だったのでうろ覚えですが、周りの大人が笑顔だったことと、とにかく協力を大事にしていたことは今でも思い出せます。日本は地震の多い国。3.11の出来事も他人事と思わずに、自分が出来ることやもし地震にあったらどうするべきか考えることが大事なんじゃないかな。
綺麗事じゃ生きていけないってのを思いしったな。
あの日からあまり笑わなくなったし。
皆口ばっかりだって思ってたし。
校長・教頭こんばんは。今夜もよろしくお願いします。
地震が起きるたびに「もしかしたら大きな地震が…」と考えるようになった。 忘れちゃいけない、あの日のこと。
東日本大地震から明日で5年。
TVなどたくさんのメディアでこのことが取り上げられています
しかし、皆さん忘れていませんか?
5年前の3月12日、長野県北部の栄村で大きな地震がありました。長野県北部地震です。
私は長野県に住んでいますが、県内のニュースでさえも今日になってやっと栄村の様子を放送していました
東北での大きな地震は風化してはならないと報道されることが多いです
もちろん、東北での地震やその被害は忘れてはならないことです
でも栄村の地震も忘れてはならないことだと思うのです
こんなにも風化されてしまうのか…同じ県内でもどれほど復興できているか知ることができないのか…悲しいです
皆さんにもぜひ、東北を思い出すと同時に栄村のことも思い出してほしいです。
東北も栄村も少しでも早く復興できるよう、私もできることをしていきたいと思います
私はその日学校で下校中の事でした。揺れはほとんど感じなかったのですが、家についてTVを見ると東北で大規模な地震が起きていた事を見て絶句したのを今でも鮮明に覚えてます。あれからは5年経った今でも完全に復興したとは言えないと思います
これからも完全復興目指して頑張れ東北!!
3月になった途端、テレビでも新聞でも東日本大震災のことを報道するのが不思議。3月だけ関心を向けてればいいの?
5年前、私は小6で震災を経験しました。その日はちょうど大掃除で友達が終わるのを待っていたときにあの大きい地震が来ました。あの日に友達を待っていなければ私は家に帰ろうとしている途中で大地震に遭い、今私は生きていなかったかもしれないと思うと偶然のめぐり合わせは本当に分からないものだなあと今でも感じています。生きたくても生きられなかった人の分まで頑張ろうと思えます。
東日本大震災から5年も経ったんですね。僕はあの時小2で帰りの会の途中でした、突然揺れ出して机の下に逃げ込みました。激しい揺れの中で見えたのは泣く友達とまるで木の枝のようにしなる電柱、教室、学校全体、周辺の建物がきしむ音。避難している時壁に入った大きなヒビを見てここは危ないと思いました。家に帰ると棚からは食器やガラス製のコップが割れて落ちていてスリッパでないと歩けませんでした。夜はとても寒く停電していたので真っ暗な部屋で寝て怖かったのを覚えています。
あの日から5年!
まだなにも終わってない!!
復興した部分、してない部分、報道されているのはいいところばかり!
細部にまで目を向ける姿勢を持って欲しい!
当時は中学校二年生で、六時間目が終わる間際で揺れがきたな。
皆でラジオを聴いてそれで被害の状況が分かった感じで。