謝って許されることじゃないし、謝る資格は私にはないことは理解してる。
それでも、ごめんなさい。私のせいで、あなたは傷ついた。私が、あなたを傷つけた。
被災地に何度か行かせてもらい、ホームステイもさせてもらったことがある。そこで見た景色が衝撃的すぎて、それでも必死に頑張ってる人たちを見て、できることをすると誓った。
その数年後、別の場所だけど被災地に行った時、だいぶマシな状況にはなったけど、それでも爪痕は全然消えてなかった。それなのに、徐々に風化してしまっているように考えてしまったのが高2の秋。
そして今、どうなっているのだろうか。今、そこに生きている人たちは何を思っているのだろうか。そんな中で、自分たちに何ができるか。ずっと答えは出ないように思うけど、それでも。
そのニュース見た瞬間、言いようのない怒り、哀しみの気持ちが溢れました
なんで??なんでよ???
これは大人とか子供とか関係なく、ほんとに考えなきゃいけないと思います
あの出来事は、決して忘れてはいけないことだと思う。
実際に、その場にいた訳ではないですが、
原発の事故を含め、今後の対策に役立てるべきことだと思う。
絶対に忘れてはいけない。
僕たちで、伝承しないといけない。
6年経ったのにあの日のことはなぜか今起こったように思い出します。
津波の映像を見ると胸が締め付けられたような気持ちになります。
あの日は腰が抜けたような感じになりました。
その時僕は友達と一緒に野球をしててこっちはだいたい震度3~5弱でその時車も横に揺れていたけど僕たちの当時はあんまり地震に恐怖はなかったからバットを地面に置いてまた揺れるかというバカな検証をしてたけど後々考えてみると怖くなりテレビもすべての局が地震や津波や原発事故のことで改めて恐怖が襲ってきた。
もうそれが6年がたつけど忘れられない出来事です
これは後世に残す教訓ですね。
東日本大震災が起こった時はまだ小学校6年生で1週間後には卒業式があるという時に地震が起こりました。その時は授業をしていて、資料を作るために自分の他に3人の友達と一緒に隣の多目的教室にいました。その時突然、上下左右に揺れ始め廊下に出ようとしても立てずにその場でしゃがんで待つ事しかできませんでした。揺れがどんどん強くなってくにつれて、壁が崩れてきたりローラー付きのオルガンがどんどん迫ってきたり、ガラスが割れたりもう怖い、死ぬのかななど思ったりしました。揺れが少しおさまり教室に戻ったらみんなが机の下に隠れてて先生にすぐに校庭に出るように指示があり、火災報知器や警報機などがずっと鳴ってる中慌てずに校庭に避難しました。しかし校庭に避難しても決して安全ではありませんでした。校庭には地割れが起きていてどこにいても怖いと思いました。親が迎えにきて家に帰るとタンスやテレビ、食器棚などのほとんどが全部倒れていたり移動していたりしていました。
体育館に避難しても地震が続いたりしていていつまでこの生活が続くのだろうと思いました。全てのライフラインがが復旧したのが地震が起きてから確か2週間以上はかかったと思います。その時は当たり前のものが当たり前に使えなくのがこんなにも不便な事だと思いました。その時に唯一の楽しみは夜の星を見る事でした。私が住んでいるところは宮城県の中心部から少し離れていた所に住んでいました。普段も星が見えるのですが、地震が起きて周りの電気がない中、真っ暗の中で見た星がすごく綺麗でした。ほんと、当たり前のことが当たり前じゃなくなるっていう事がこんなにも辛い事なんだと改めて知る事ができました。
この事を忘れずにして行きたいと思います。
長くなってすみませんでした。
今日、たまたま学校の理科で地震について習いました。
知識の上で考えても、東日本大震災は本当に大きな地震だったんだなとおもいました。
1上がると32倍になるマグニチュードが9.想像できません。
震度は日本で1番大きい7.
実際に体験していない身のため、被災された方々の気持ちなんて、分かるはずもありませんが、被災地の一日でも早い復興を願っています。
自分でできることは、どんどん協力させていただきます
被災者の方々が一日でも早く元の生活を取り戻せるようになるために