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苦しみは楽しみ

もしかしたら、無駄な努力かもしれない。ただの悪あがきかもしれない。
対して変わらないことに必死になってるのかもしれない。でもそれでいい。その方が思いっきり、もがける。
もがくのは、苦しいと同時に気持ちいい。

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ハサミがなきゃ始まらない

いつまでも彼の隣は私
って、思ってたのに。なんでかなぁ。
とうとう来たか、私にも。
そりゃ、初恋があって手を握ってお出掛けもして
キスまでしといて、失恋が無いなんて出来過ぎか
よし!レイヤーショートでお願いします!!!

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無 題

きらいならそんなに優しくしないで

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寝癖

ライオンみたいだね。

かわいい。

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社会における希望と絶望のパラドックス

今日の社会では希望という言葉をよく目にする。
だが親や友達や社会から与えられる希望という言葉は中身がなく、
イメージをそのまま意味として定着させたような、そんなモノだ。
希望を捨てるな、希望を持て、絶望するにはまだ早い。
これらの言葉にも、意味は無いように思える。
それこそ希望という、輝かしいイメージと何も変わらない。
イメージ、印象は大切だ。
だがそれだけでは、本来は善と悪の基準にはならない。
もし希望という言語に意味を持たせるとすれば、願いが妥当だろう。
では希望とは、願いとはなぜ生まれるのだろうか。
我々が希望を強く意識する時を思い出してほしい。
その時は、きまって絶望の中にいる時ではないだろうか。
強い絶望の中にいる時こそ、
我々は希望を強く感じることができるのではないだろうか。
すなわち希望とは、絶望があるからこそ存在を感じる事ができるのだ。
では絶望とは、どんな時に感じるモノなのだろうか。
例えば、自分の力で確実にこなせる事をやっていても
達成感しか得られないだろう。
つまり絶望を味わう時とは、
自分の力の及ばない範囲に挑戦をした時なのだ。
最初の挑戦は成功しても、その一段階上、
さらにその一段階上と挑戦していけば、
いつかは自分の力を超えた挑戦をすることになる。
その時の失敗が絶望をもたらすのだ。
つまり絶望とは、挑戦した証のようなモノなのだ。
では社会が言うように、絶望を捨てたとしよう。
それは何事にも挑戦せず、
希望を捨ててしまう事を意味するのではないだろうか。

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足掻け青春

足掻け青春
それでも生きたいとおもうなら
掌叩け
左と右と交互にパンパン
走れないなら
歩いてもいいんじゃないかと思った5月
歩けない?
それなら、這いつくばればいい
土なめろ
自分の足跡の味がするだろ
そして笑って
明日もきっとくると信じよう

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怖いのはちょっとした勘違い。

勘違いしてないかい?

君はよく口にするね
「世の中私の事よく解ってない」って

なら「君」っていったい何なのか。
君が主張する自分らしさとは何なのか。

主張しても解ってもらえないのはきっと
君の自己満足で終わってしまっているからだよ。

もっと必死に自己をアピールしなきゃ。


最後に君に一つ。

世の中は君をしっかり理解してるさ。
上手くいかないのは
君がまだ世の中の事をよく解ってないからさ。

まぁやるかやらないかは君次第。
まぁ生を選ぶか死を選ぶかは君次第。

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「好きだよ」

僕らはお互いを繋ぎ止めるためにこの言葉を使う。
「好きだよ」
「あたしも好きよ」
かように。
なんとなく僕らは抱き合い、なんとなく口付けを交わして、なんとなく肌を重ねる。
なんとなく彼女の隣で目覚めて、彼女はなんとなく朝ご飯、ポーチドエッグやトーストなんかを作り、僕はなんとなくそれらを腹の中に収める。
ルーティンの如く僕らは寄り添い、共に生きる。
だってほら、ひとりで生きてくったって、なんかつまらないし。

けれど、君はこんな僕らを笑っちゃあいけない。
“僕ら”を代名詞としたとき、その言葉が差すのはきっと少ない人間ではないから。
「好きだよ」
「あたしも好きよ」
かように。

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カノウセイ

知らないことは
恥ずかしいことでもなく
恐れることでもなく

新しい自分に出会える可能性のこと