暗闇の中、人影がゆらゆらと動いている。
明かりすらない部屋で、人影はまるで闇の中で目が見えているように本棚の間を歩き回っていた。
この部屋には多くの棚があったが、その中身は魔術書の類が殆どである。
普通の本も存在するが、ここにある本の多くは埃を被って眠っている。
そんな音一つ立たない書庫の中で、人影は当てもないように彷徨っていた。
「ここにいたのね」
闇の中から飛んで来た声に、人影はピタリと止まる。
「明かりもないのに、こんな所にいるなんて」
そう言いながら、赤毛の少女は姿を現した。
少女の右手では燭台が辺りを照らしている。
「探し物?」
そう尋ねられて、グレートヒェンが持つ明かりに照らされたナツィは別に、とそっぽを向いた。
そう、とグレートヒェンは呟く。
「何か用?」
今度はナツィがグレートヒェンに尋ねた。
「…ちょっと話があるんだけど」
グレートヒェンがそう答えると、ああそうですか、と言ってナツィは背後の棚にもたれかかった。
ありがとう
とか
ごめん
とか
何気ない一言とか
普段こんなに言葉を発していたんだ。って気付いた
私の隣の大好きが
君のことを見て言葉が止まるのが
くるしくなって
私は君の方を見れない
会いたいけれど
君を独り占めじゃなきゃやだって
私、君の何でもないのに
そんなこと、思う
まだ俺は俺を見つけられない
だから今はお前が俺になってくれよ
このどうしようもない世の中を
俺の変わりにもがいて俺を嗤え
「”あれ”でしたら、多分書庫の辺りにでもいるでしょう」
最近はああいう所に隠れてたりもするんでねぇ…と言って、屋敷の主人はグレートヒェンに向き直る。
「にしても、昼間”あれ”が勝手な行動を…」
申し訳ありません、元々ああいう奴で…と屋敷の主人は面目なさそうに言う。
それに対してグレートヒェンは、謝ることかしら?と首を傾げる。
「…別に、正式な主従ではないのだから、あれ位気にすることでもないと思うわ」
むしろ、とグレートヒェンは屋敷の主人の目を見ながらにこりとする。
「あんな性格だから、今まで多くの魔術師に盥回しにされてきたのねって、よーく分かったわ」
屋敷の主人は驚いたような顔をする。
グレートヒェンは気にせず話を続けた。
「様々な魔術師が大金やら何やらをはたいて自分の物にしては、その癖の強さに耐え切れず、無理に主従として契約しようにもすぐ魔術師が契約を切る代物…」
全く、噂通りだったわ、とグレートヒェンはクスクス笑う。
「そして貴方も、その癖に耐え切れず、従えられないまま…」
グレートヒェンの言葉に、屋敷の主人は恥ずかしそうに俯いた。
「…ふふ、まぁいいわ」
決まりが悪そうにする屋敷の主人を見て、グレートヒェンは話を切り上げて立ち上がる。
「それじゃ、今日はもうお休みさせて頂くわね」
グレートヒェンはそう言うと、屋敷の主人に小さく手を振って廊下へと去って行った。
長い夢から醒めた後はいつも
決まって酷く喉が渇いている
脂汗と頬に張り付く髪は
生きることの次に不快だ
白い壁に回る幻影
聖母に抱かれた赤子の顔は何処へ?
首に巻き付いた臍の緒は
未だ取れないままでいる
動けば動くほど喉を締め付けるそれは
一体何の呵責だと言うのか
窓辺に生けた花は苦悩の色をしている
痛覚は何に似ていたか
皮膚に纏わり付いた瘴気を
振りほどくことも出来なくなってしまった
ただ段々と染みついて
いずれ私を腐敗させる
その血肉を水に溶かして
もう一度女の身体から生まれてこようか
気の狂いそうな脈動と
うだる体温をもう一度、もう一度
悄然とした雨の夜を見下ろして
火に集い羽を燃やす蛾は
笑えるほどに私に似ている
いいかいその絶望も悲哀も
誰が与えた訳でも無いのだ
ひとりの男が口元を歪めながら
耳元でずっと囁いている
病院のような礼拝堂に埃は舞って
純潔の乙女は花弁を飲み込んだ
焼け爛れた喉の痛みに耐えながら
冷たい無機質を嚥下する
一切の余白を許さずに刻まれた文字
懺悔によって殺された善良な人間
これが神だと言うのなら
これが正義だと言うのなら
背徳によって救われる命もあるだろう
美などこの世には無いのだ
お前の瞳は何も見てはいないのだ
肉体ばかりがひとりで生きて
私を置いて彷徨っている
嗚呼、昔誰かが言っていた
人の血の赤いのは、昔林檎を食べたからだと