【前頁から続く】
――やっぱり駄目そうだ。
本能がそう囁きます。その瞬間気が楽になりました。やっと神仏が手を差し伸べた……今の男にはそれが天道神だろうと疫病神だろうと関係はありませんでした。ただ、やっとこの苦しみから逃れられると、一心にそう思っていました。
――ああ、最期に、最期に一口でいいから綺麗な水が飲みたかった。俺の末期の水はこんな泥水か……。
霞む目を瞑る寸前、男の脳裏には諦念に混ざってそれとは別の感情がよぎりました。しかし正体に気づく前に男の意識は完全に途絶えてしまいました。
どのくらい経ったのでしょうか、男は目覚めることができました。
戻った聴覚に戦争の音が飛び込んできます。薄く開けた眼に容赦なく白い日光が木々の隙間から差し込んで、唐突に肌に張り付く暑さが襲ってきました。戦争で受けた傷がジンと痛みます。黄泉の国でないことは明白でした。
――ああ、そうか。
「み……ず、か」
そうか。あれか。あれの所為か。
どうせ後で苦しむことになるなら、あんな水は飲まなくても良かった。飲まない方が良かった。
それなのに何故。
理由は明白でした。身体が水を求めていたからです。自分の意思ではありません。しかしそれだけで、男の胸の奥底から、生きようという気持ちが湧出してきました。
……自分が死ねば兵士達の死は誰にも知られず異国の泥に埋まっていく。彼らと自分に報いずに、このまま死ぬことが許されるのだろうか。自分は許せるのだろうか。
男は自分に問いかけました。
明確に答えを言葉にはしませんでしたが、彼は投げ出していた銃を支えにして立ち上がっていました。
倒れる直前の感情の正体が分かった気がしました。
【完】
戦争について語った短編小説【最適化済】
題名「末期の水」
作者 10代・女
制作 2025年 検閲・最適化 2026年
《本文》
マニプール河に沿って、兵士たちは歩いていました。行軍と呼ぶのもはばかられる様子でした。
彼らは撤退する間に次々と亡くなっていきます。彼らが亡くなってしまったその道は「白骨街道」と呼ばれました。歩ける者も、そうでない者も、多くが飯盒と手榴弾と小銃以外は捨て、殆ど身一つです。足元は殆ど裸足のような状態でした。
――もう駄目だ。
朦朧とした意識の中で、最後を悟る男がいました。
昨晩までの雨で道には川のように泥水が流れています。しかしそれを気にしている余裕はとうの昔になくなっていました。右半身は泥にめり込んで、温い水が滲みて身体がいつもの数倍重く感じています。
体中が痛い。力が入らない。感染症が生命を蝕む。目蓋が嫌に重い。脚も疲れて立っているのも難しい。腹は減っている。しかし吐き気がする。固形物はもう身体が受け付けなくなって久しい。
疲れた。もう、疲れたのだ。
男は細い腕を腰にやりますが、触れた場所に求めていたものはありませんでした。いつの間にか手榴弾の入った布鞄までどこかに捨ててきてしまったようです。
次に男は投げ出した銃に手を伸ばしました。しかし掴んでも引き寄せることができません。今の男にとってはあまりにも重すぎたのでした。
――ああ、水が飲みたい。綺麗な水が……。
ふと、絶望した脳内にそれだけがぼんやり浮かんできました。
母の顔も戦友の声も妻子の手のぬくもりも何も思い出せないのに、それだけが。
気がつくと男は、道の中央に溜まっていた水を無意識に口に含んでいました。綺麗とは言えない水です。しかし、それを起き上がって震える両手で掬います。
夢中になって二口三口しますが飲み込み切れず吐き出してしまう。また一口飲む。また吐く。身体が液体すら受け付けなくなってしまっていました。
【次頁に続く】