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志村正彦2

フジファブリックの曲で「茜色の夕日」という曲がある。
フジファブリックで1番有名と言えるような曲だ。
志村の失恋から産まれたその曲は、自分の衝動をそのまま歌詞に刻んだ曲で、人生の中でこの曲に込められたものに勝る想いはないとまで、彼自身が言っていた。
この曲は当時志村正彦がアルバイトをしていたクラブでレコーディングした曲で、天才なんじゃねぇかと店中ぶっ飛んだと、同じくそのクラブでアルバイトをしていた氣志團の綾小路翔が言っていた。
綾小路翔は志村が一度地元に帰ろうとした時に、じゃあ「茜色の夕日」をくれない?と、頼んだほどだ。
また、志村正彦が亡くなって4日後の28日に行われたカウントダウンジャパンには、志村正彦が音楽を始めたきっかけとなった奥田民生が出演していた。
奥田民生は自分のステージの最後にこの「茜色の夕日」を演奏したそうだ。
曲の終わりの方になると、奥田民生は声を詰まらせ歌えなくなってしまったらしい。
そして、最後に「フジファブリック!!」と叫んで、ステージを後にした。

ここでは書ききれない多くの人が彼の作った音楽を聴き、惚れ込んだ。
どうかその音楽が志村が亡くなったずっと後も聴かれ続けるように、もし良かったら、「茜色の夕日」を流して頂きたいと思います。
おねがいします。

長く拙い文章をここまで読んでくれてありがとうございました。

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志村正彦1

みなさんは、フジファブリックというバンドをご存知だろうか?
2000年に志村正彦を中心に結成され、脱退や解散をし、2004年にメジャーデビューを果たした。
当時、フジファブリックの楽曲の殆どが作詞作曲共に志村正彦が務めたものだった。彼の独特な歌詞と独特なメロディラインに魅せられて多くの人々がフジファブリックを好きになっていった。
しかし、フジファブリックはまだこれから進化出来るという状況だった2009年12月24日、志村正彦はこの世を去ってしまった。
発見された当時、彼はパソコンの前に座っており、曲作りをしていた途中だったらしい。
曲作りをすごく真摯に行う彼らしい亡くなり方だ、と誰かが言っていた。
私は、志村正彦と志村正彦の作る楽曲が本当に大好きだ。
だからこそ、志村正彦の死と向き合うというのはとてつもなく苦しいことだった。
私がフジファブリックを好きになった時、志村正彦は既にこの世を去ってしまっていた。
しかし、彼の作った曲は今でも多くの人々の中に生き続けている。
今でも多くの人々に衝撃を与え、影響を与え、感動を与え、笑いを与え、希望を与えていることに違いはない。
今日は、そんな愛される志村正彦と彼の作った楽曲について少し長くなるだろうが、語らせていただきたい。
また、この内容と同じものを掲示板にも書き込んだが、1人でも多くの人に志村正彦と志村正彦の作った音楽とフジファブリックを知っていただきたいので、そこはご了承おねがいしたい。
志村正彦は天才で変態だった
それは、彼の楽曲にもよく現れている。
彼の書いた歌詞は、とても天才的で変態的だった。
カタカナ英語を上手に使い、叙情的そして感傷的で、その景色が鮮やかに浮かぶような歌詞を書く。
また、彼の作る音楽はクラシックやジャズや60~70年代の音楽に影響を受けた渋いものから始まり、プログレッシブロック、パワーポップと、どんどん若返っていく様に見える。
志村正彦のつくる音楽のジャンルの範囲は本当に広い。
どんどん変容を遂げる彼の音楽を聴くのは、とても楽しい。
少しでも興味を持ったら、本当に聴いてみてほしいと思う。