表示件数
3

大好きで、もう会えない先生へ

今日は、悲しい知らせが僕のもとに飛び込んできた。昨日という日とともに、今日その知らせを受けて僕は死の無情さと、人の死が与える影響の大きさを深く、深く感じた。
僕の通う高校では1年生の時、全員が世界史の授業を受けるのだが、その先生がとても個性的な人だった。先生は、教科書は見るな!君たちの教科書は資料集だ!という考えのもと、知識がとてつもなく豊富ということもあり、先生が歴史の流れを話し、板書はほとんどせず、それを聞いてまずは、ノートの半分にメモを取る。そして、授業が終わってから残り半分に自分でまとめるというものだった。先生が話しているのを聞くと、実際にその時代に生きていたかのような気分になるとともに、先生自身とても楽しそうに話していた。そんな先生の授業が、先生が僕は、僕たちは大好きだったし、尊敬していた。一時期は、先生のようになりたいと社会の先生を夢見たこともあった。しかし、高校2年生になった際に文理選択が訪れ、僕は結局、理系を選択したため先生の授業を受けることはできなくなった。その後、何度か廊下で見かけることはあったが会話をすることはなくなっていた。そういう日々が流れる中で、先生の体調がだんだん悪くなり、学校を休むようになっていた。それでも、なんとか来てくれていた。今日、知った話だが、入院している病院から学校に通っていたそうだ。そして、今日、僕たちにその先生の訃報が訪れた。茫然、そして、後悔。そればかりがやってきた。あれほど知識が豊富で楽しそうに授業をしてくれる先生はいなかった。本当に大好きだったし、もっと話しておけばよかった。先生は最後に、君たちの卒業まで面倒見てやりたかったができなくなってしまった。ただ、人生を楽しく豊かに生きて欲しいと言っていたそうだ。思えば、先生は「楽天」という言葉を大切にしていた。
こういうことがあった今日、まだ受け入れられていないが、僕は決意した。人生を豊かにするために、あと1年受験に向けて努力をし続ける。先生が見守ってくれていると信じて。

0

今を生きる

今日で8年。今、君は何を思うか。
まず、今日という1日を振り返ってみてほしい。この日は、特に今生きている日本人にとって、頑張って生きなきゃいけない日だった。そして、今日感じたことを、考えたことを心に刻み前に進んでいかなければならない、今日からまた1年後に向けたスタートの日だった。さぁ、どうだっただろうか。
僕は高台に住んでいたからこうして生きる使命を得ることができているが、この日のことは今でも忘れられない、忘れられるはずがない。この日の、薄赤くいっそう陰惨な雲の下、真夜中に光続ける気仙沼の石油コンビナートの火。気仙沼から100キロを超える場所からも見えた。その時、僕は小学3年生で感受性もまだ豊かとはいえない年齢ではあったが衝撃的で、今までの光とは何か違う、黒ずんだ赤い炎に見えて仕方がなかった。そして、ラジオ、電気が復活してからはテレビで震災の情報を得て、映像で見たときには悲惨過ぎた。ごめんなさい、小学3年生の僕はとても呑気に生きていた。場所も場所で、両親や自衛隊の方の食料や水の配布など苦しい生活を強いられてはいなかった。だから、正直、上辺だけだった。
そのような薄い日々を過ごしていた僕も中学生になると、恩師に出会った。野球部の監督だ。監督は日々、信念を持ち、物事の本質を追求していた。そして、毎年、3月10日になると生徒を集めてある話をしてくれた。「明日は、今生きている人にとって、一番頑張って生きなければならない日なんだ。俺だって、できるなら、実際に現地に行って復旧そして、復興の手伝いをしたい。だけど、それは俺にはできない。君たちだってそうだ。だから、どうするのか。頑張るんだ。一年に頑張る日はそうそうないけど、明日がその日。思うだけじゃだめだ。君たちが、学生という立場で何ができるのか、考えて行動に移すんだ。そうしないと、生きている価値はない。」と。それから、僕は毎日恩師の言葉を思い出し、度々、今日のように文を綴ったり、その年齢でその日に感じられたことを留めるようにしている。
今日、僕は何ができただろうか。今日という特別な日に何を感じ、何を思い、何をしたかが、これからの未来の豊かさを決めていく。日本の未来を語る前に、今の自分を、想像されうる未来を今日、自分で考えてみてほしい。

0

持論を展開させていただきます

僕の場合、あと2ヶ月で17歳が終わる。あと2ヶ月で17歳の感性は失われ、少し成長してしまうようだから、今日この日に、「いじめ」について考えていることを書いてみようと思う。
いじめは現代の学生生活の中でなくなりはしないものとなってしまっていて、日々心を痛めるようなニュースが朝のテレビの中のキャスターの声で僕の耳に伝わってくる。そして、僕の身近なところでそれが起きてしまっている。実際に相談に乗って、色々と話を聞いていると、ある一つの持論が生まれた。いじめの原因はよく、している側にあるとか、されている側にあるとか、親にあるとか、教員にあるとかそういうことをよく言われる。その中で、僕は1番の原因を抱えているのは、学校にあると思っている。今まで、している側の人がいじめを悪いとなんて思っているわけがないのだから、なくすためには、されている側の人が親に言って、学校に伝えるしかないと思っていた。しかし、相談に乗って話を聞く中で、それが不可能に近いものだと分かった。その人の学年で、過去にいじめが起きたのだが、その時の教員の対応がひどいもので、されている側の気持ちをほとんど汲まず、話を大きくしたくないという一心での対応に思えた。そのため、教員への不信感が生まれ、親に相談したとしても教員に伝わり、いじめられていることが分かり、余計にいじめが加速する。この流れを恐れて、親にも学校にも言うことができないということだった。実に分かる。いじめとは、大方、学校で起きる問題であるから、教員の信頼による所が大きいと考える。最近、大人の対応が悪かったというのがあったこともある。だから、僕はいじめを解決するためには、学校がほとんどを握っていると思っている。生徒の信頼を得られる教員や学校をできるだけ多く作ってもらい、変えてもらえることを今の大人たちに願っている。