昔話
自分は発達障がいが確定(診断を受けた)したのが高3の時で、それ以前は検診や検査の類では“発達に問題なし”という扱いを受けていたから、ずっと自分を皆と同じ“健常者”だと思っていた。
おそらくそれは今の言葉でいう“発達障がいグレーゾーン”だったんだろうけど、昔はそんな言葉なかったんだ。
だからこそ小学校高学年のときは罵倒されたり、中学時代は陰口叩かれたり、「○ね」とすれ違いざまに吐き捨てられたり、長年の人間不信で人の声や大きな音に敏感になっていることに目をつけられてわざと大きな声を上げたり、身体を触ってきたり…
高校は地元から逃げてどうにかマトモな学校に入ったけど、コロナ禍でマスクを外せなくなった結果他人と余計に喋れなくなって、元々うまくいってなかった親ともどんどんうまくいかなくなって、学力も落ちて、その内に親が「発達障がいかどうか分からない状態にケリをつける」ために心療内科に連れてかれて結局“発達障がい(自閉症)”と言われた。
正直受け入れられなかった。
だって自分は多少おかしい所はあっても“健常者”だと本気で信じて生きてきたから。
それでも親に無理やり説得されて精神障がい者手帳を取得することになったんだけどね。
その後は結局浪人して、色々頑張ったけど親に“もうこれ以上は無理だ”と言われて予備校を辞めさせられそうになった。
でも抵抗した。
だって(おこがましいしアホくさいかもしれないけど)健常者みたいに生きたかったから。
みんなと同じ幸せを享受したかった、たったそれだけ。
まぁ親にはそんなこと言わなかったけどさ、でも全力で抵抗して通っていた高校のレベルよりは学力は落ちるけどなんとか大学に入った。
そこでたまたま学祭実行委員会に入って、たまたま愉快な仲間たちに出会って、やっと多少は喋ったり笑ったりできるくらいにはなってきたんだ。
ここまで随分長かったなって思う。
相変わらず親とは思うように話せないし、怖くて仕方ないし、自分のことを未だに全然わかってくれないんだけどさ。
それでもあの時全力で親に抵抗して、自力で掴み取ったものが自分をここまで引っ張り上げてくれたのだと思う。
学祭実行委員はもう卒業しちゃったけど、それでもあの場所で手にしたものはきっと本物だから。
だから自分の意思で選択するって大事だよなって、今さら思う。