ラジオを聞いていてどうしても書き込みたいという変な気持ちがわき書き込みました。
正直なことを言います。
僕は震災の真実を知りません。あの時どんな状況に人々が陥っていたのか、どれだけ辛く、先の見えない避難生活を続けたのか、何も知りません。
誰か知っている人がいたらぜひ教えてください。
復興ってどれくらい進んでいるんですか?
復興支援のお金はどうなってるの?
原発のこと震災前はどう思っていたんですか?
母は東北も原発の電気使ってたんだから手のひら返すのはどーなの?って言うし、ニュースで取材を受けていた人は原発の電気は全部東京に行ってたんや!って言うし。本当はどうだったの?
今自分の中に、震災の辛さを知らない僕は東北のことを語ってはいけないのでは、本当に震災を知っている人々だけが震災を語ることができるのではないか。このままもし自分が海外に出て震災の話をしてくれと言われた時、語ってもいいのか、自分にもし子供ができて震災はどうだったの?って聞かれたとき、答えていいのか?
語り継がなければならないけど僕がその一端を担いでいいのか?
そもそもこんな質問をしてもいいの?
東北の皆さん、校長、教頭、教えてください。
今、なんかわからないけど泣きそうです。
私の県は被害が東北で極端に少なく、「今住んでるのって本当に東北か?」と思ったのが震災直後。揺れは震度6弱とかいったのかなぐらいしか覚えてない。後で震災の記録とかを見ると、「山形県ありがとう」の文字が多数。山形空港はドクターヘリの拠点となり、山形県全体は、福島からの避難者受け入れという形で被災地を支援しました。私は当日小5。帰りの会がちょうど終わった時にあの揺れが襲いました。当時の担任はいたって冷静で、「机の下に入れ!震源は大体宮城沖だ」と。揺れは長くそして弱く。長すぎて泣き始める同級生も。当時の私は「海の震源だったら津波……」と一瞬考えましたが、すぐに家族のことを考えざるを得なくなり、かき消されました。今思ってみると、担任の言葉は当たってたし、あの時考えていたら、これまでボランティアとかやってたのにと思ってしまいます。でももう5年。なんか虚しい。なんかやりたかった。今の自分に何ができるのだろう…
5年が経とうとしてる今、自分には何ができるのか考えています。復興の為に募金をするということしか浮かばなかった自分が無力だと感じます。被災した人たちの恐怖、不安、悲しみの記憶を消すことはできなくて、無かったことにすることも自分にはできません。未来新聞や掲示板を見て、体験した人のあの時のそれぞれの状況を知りました。とても胸が痛くなりました。
何ができるだろう。今ある全ての命を大切に、生きる。この震災を考えることを止めない。少しでも笑顔を作り出せる力になる。微力だけど自分にできることをします。
今の日本はいつ火山の噴火や震災とかの自然災害が起きるか分からないから、日頃の備えをしっかりしたいね!(^∇゜)v
僕は、特に酷い被害にあった訳でわ
ありませんがしかし
地震の時は、小二でとても怖くて
母と弟は、ディズニーシーに行っていて
家族もバラバラで
父と2人でとても辛かったです
自分には何も出来ないが
早く復興することを祈っています
これは友達が体験した話です。
進学して福島を離れた友達が、福島の食材は食べたくないし、子どもとか福島の子と結婚なんてしてほしくないということをいろいろ言われたらしく、それを聞いた瞬間怒りを超えて悲しみがこみ上げてきました。
震災直後は自分も似たようなことを言われたことがある。けど5年経っても正しく理解されてない、何も知ろうとしないのに文句ばかり言う!まずは自分で確認してから発言してほしい。傷つく人は山ほどいる!
そんな人がいなくなる世の中になって欲しい!
僕は高知県に住んでいて、TVでしか東日本の様子が分かりませんでした。
今でも、あまり分かっていないと思います。あれから5年も経つんですね。
高知県にも、30年以内に必ず、南海トラフ地震が来ると言われています。
3.11を忘れず、自分達のやれることをやって行きたいです。
どう足掻いても、あの日には戻れません。だけど、同じ事を繰り返さないためにも、準備をしていきたいです。
ハジ→ /「3.11。」
自分も、あの日を忘れない事が大切だと思います。
5年たった今でも知らないことばかりだなと思った。私自身の足で東北に行って自分の目で確かめることがきっと大事なのだと感じた。未来新聞や掲示板などに震災のときのことを書いてくれている生徒さんには普段のメディアなどでは知ることのできないことを教えてくれている。ありがとうを伝えたい。
今年も「未来新聞」が発行されますね。おととし、去年と聞いてきて
このまま忘れてはいけないと思って日記に書いたことを思い出しました。ラジオで聞く現地の10代の声からは現状がひしひしと伝わってきました。
直接被害にあっていない側からは無責任なことは言えない。経験した人にしかわからない景色、体験があるしその心境は想像をこえるものだと思います。
だからまずは現地の人の話を聞いて現状を知ること、復興に向けた支援をすることが使命なのではないかと思います。
あの日、僕は小学四年生でした。当時の僕は、好きな歴史の繋がりで災害に興味を持ち、よく調べていました。
東日本大震災が起こったとき、僕は学校にいました。家に帰ってテレビをつけるとどのチャンネルも東北ばかり写していました。そして何時だったか、その日のニュースで津波の映像を見ました。
まるで地獄絵図。
言い方は悪いかもしれませんが、そう思いました。
僕が初めてリアルタイムで目にした大地震。資料でしか知らなかった災害がそこにありました。
そして、確か次の日のニュースで、原発事故を知りました。僕は、原子に興味を持って調べていた時期があったので、そのニュースが如何に恐ろしいものか、よくわかっていました。
未来新聞は、毎年読ませてもらっています。そして毎年泣きます。特に身近な誰かが死んだという話は、数年前に癌で亡くなった僕の恩師に重ねてしまい、泣いてしまいます。
僕が住んでいる徳島県は、過去に大地震に見舞われています。南海地震です。東日本大震災が起きて以来、よく南海トラフという言葉を聞くでしょう。それは3つの大地震を引き起こす箇所の総称で、南海地震はそのうちの一つが起こす地震です。近年、この3つが連動して大地震が起こるのではと言われています。東日本を越える被害が出るとも。本当に三連動地震が起こるのか、起こっても東日本を越えるのかわかりませんが、未来新聞を教訓にして家の中の防災に努めています。あの日以来、募金箱を見つけたらなるべくするようになりました。
僕は東北に行ったことがありません。行きたい場所はたくさんあります。伊達政宗、大好きです。いぶりがっこ、食べてみたいです。中尊寺、今一番行きたい場所です。いつか、行ってみたい。いや、絶対行きます。
僕みたいな小さな地震すらほとんど経験したことない者が言うのも烏滸がましいのですが、更なる復興を願っています。
ちょうど1年半ほど前中学の修学旅行で
宮城県の沿岸部に行きました。行く前は他の学校が観光地とかに行ってるなかでどうして俺らの学校だけ観光地じゃないんだと思ってました。
でも違った。
自分の目で震災の爪痕が残る海岸を見てたくさんの事を感じた。そして色んな話を聞くことができた。これは今しか出来ないことであって貴重な体験だということを強く強く思った。卒業式の時に全員分の新聞バックを送ってくださって、その新聞バックと卒業証書を持って卒業して1年。自分は高校生になって今日の授業でまた深く考えることができてよかった。
1年前に見た景色は今も瞳に焼き付いています。
読んできました。今の自分達に必要なのは「知ること/伝えること」。復興と並行して。
前に学校の授業で「日本のエネルギーの将来性」を考えた。その中で、「原発は残すべき、ただし、より効率的なクリーン発電が可能になると並行して減らすべきであり、その究極は宇宙太陽光発電だ」と書いた。それは、強烈な磁気嵐やフレアが直撃しない限りほぼ無限に軌道エレベーター等で電力供給が可能だから。今からするとオーバーテクノロジーの領域だ。軌道エレベーターが特に。
そして、復興を妨げる最大の要因は支援ゴミの問題だと思う。本人は利他的に動いてると錯覚する。ただ、それはあくまで自己満足。需要がないものを需要があると錯覚する。本気で支援したいのなら、一歩立ち止まって考えることも必要なのかもしれない。
5年経った今、残酷な時間の中で人は記憶を無くしていく。だからこそ、各々が一瞬でも考えること、それが辛いなら生きる事。SOLにだって亡くなった人はいるかもしれない。だったら、その人達の想いも背負って生きなきゃいけない。長文失礼しました。
あの日から何ヶ月か、震災関連の新聞記事を切り抜いてスクラップしていた気がする……あれまだ残ってるかな、もう一回読んでみよう
私は新潟にいました。
小学4年生の頃でした。
勉遊していたら地震が来ました。
かなりの揺れだったので気持ち悪くなってしまいました。
おさまった後、体育かんに集まって友達と怖さを紛らわすために遊んでいました。
すごく怖かったのを覚えています。
避難訓練とかしてる時、絶対地震なんて来ないだろって適当にやっていました。
でも、こんな大きな地震が来て、避難訓練は大事だなと思いました。
新潟県は大きな被害はなかったと思います。
でも、隣の県では大変な事に。
複雑な気持ち。
今日は卒業式でした。
友達と先生とたくさん泣いて笑って楽しかった。
泣きすぎたな…(笑)
卒業式を同級生みんなでできたこと、卒業式が自分たちの学校の体育館でできたこと。これはあたりまえじゃない。私達はしあわせだな。
自分のいた長崎でも津波警報が出ていました
さらに震源に近いところの影響は本当に想像さえ出来ないです
想像することもおこがましい気がして。
五年前の明日、学校にいました。みんなと勉強している時に揺れに襲われました。そして今日は、その仲間と別れる日でした。小学校から持ち上がりで苦楽を共にしてきた仲間。そんな仲間と別れるのは、寂しいけれどもまた会えることを信じてます。そして、岩手宮城福島が1日も早く復興できることを願います。
東日本大震災から5年か・・・あれ以来いろんな起きることになったけど。当時の政府の対応は余りにも酷くて。国を運営する責任を持てるのは本当にごく一部しかいないというのがはっきりした。その後、政権は変わったけれど東北の復興に関してはどうなっているのか自分にはまだよくわからない。でも、ごく一部の映像を見る限り余り変わって無いように見える。一朝一夕に終わる問題じゃないだろうけど。国も数年間の見通しを発表したりとかしてるのかな?知っている方是非教えてください。
あの日から5年ですね。「もう」5年なのか、「まだ」5年なのか、どう言えばいいかわからないけれど、当たり前のことを当たり前だと思ってはいけないんだと思います。当たり前のように支えてくれる家族、当たり前のように仲良くしてくれる友達、当たり前のように叱ってくれる先生。そういう大切な人に今伝えたいことは今伝えなくちゃいけないんだ、と強く思いました。明日がどうなるかなんて誰にもわからないから、「ありがとう」も「ごめんね」も「大好き」も今日言わなくちゃいけないと思います。
福島県は祖父母が住んでいるから、好きな場所だけど、福島県について書き込むことをいつもためらってしまう。福島県の原発の電力で生きているくせに、放射能の被害がほとんどなかった関東に住んでる人が福島県に対してやすやすと「頑張れ」とか「復興」だとか言っちゃだめなんじゃないかと思う。かといって何ができるかもわからない。
あの日から明日で5年。
テレビで見たあの光景は、自分の全てを恐怖
で包み込み足がすくんで動けなくなりました。そして5年を迎える明日僕は中学を卒業します。
いろいろな思いを背負い、あの日中学を卒業したくても出来なかった東北の仲間の為の分も精一杯卒業してきます。あの日を忘れてはいけない
あの日、母がドラマの再放送を録画していたのですが、「震度7」というテロップが流れ、ニュース番組に切り替わり、そしてリアルタイムで入ってくる津波の映像をキャスター、コメンテーターの方がそれを茫然とみる…という映像がまだ我が家のテレビに残っています。
当時の僕は小学二年生で、物心あるかないかのときだったのを覚えています。
でもその日の記憶だけは鮮明に覚えています。その時のことも、その時の夕食も。
なにも知らない僕は、普通に学校から帰ってきて、急に、静岡に住んでいる祖母から電話がかかってきました。
「テレビ見て!」と言われ、「なんもないでしょ」と思っていた僕が、テレビを見た時のその映像は、
小2の物心あるかないかのときの僕の脳裏にその映像は焼きつきました。
それは、防波堤を越え、町、車、人、全てを飲み込む「津波」という悲惨なものでした。
自分は、山口県に住んでいて、被害を受けた「被災者」ではありません。
でも、そのテレビを通して見たことを忘れることなく、「伝える者」としてなら、被災者の人の苦労、困難、悲しみ、全てを、次の世代に記憶を受け継ぐことができるのではないでしょうか。
今日、父に言われたことは、
「急に、帰るところがなくなったり、友達と急に別れたりすることが考えられるか?」
と、言われました。
自分は考えられないと、そのとき思いました。
だからこそ、今、この環境、友達、家族、この時一瞬、一瞬を大切にしなければなと思わされる日だなと思います。
遠いところからですが、被災者の皆さん、いや、「震災の記憶を受け継ぐ資格のある人」たちの皆さん。
完全復興に何年かかるかわかりませんが、頑張ってください!
もう5年、まだ5年。
それぞれ思うことはたくさんあると思う
あの日の揺れを思い出す人、
テレビに流れ続ける同じCMを思い出す人
大切な誰かを思い出す人。
それぞれの心の中にある3.11を大切にして
明日だけじゃなくて、いつも心の隅に置いておくこと
それが1番大事だと思う。
自分は3.11のあと、日本を離れた。
私が日本人だと知って、君が生きていてよかったと
涙を流してくれた人がいた。
国境を越えて、海を越えて、
たくさんの人が応援してくれてる日本が
とても誇らしかった。
それぞれの心の中にある3.11を大切にしよう。
キッフアンドリリースに参加することでもいいんだ。
難しく考える必要はないよね
出来ること、始めよう
どんなに小さな力でも。
5年前の3/11、私は小6で思い出作りのために友達の家族と私の家族の2家族でディズニーリゾートに旅行に行きました。ちょうど旅行の1日目でした。2時半過ぎ、あと少しでビックサンダーマウンテンに乗れるというところで地面が揺れ始めました。私はアトラクションの揺れかと思っていました。その後立っているのもつらいくらいの揺れが続きました。余震が続く中、ディズニーのキャスト達は無料でポップコーンを配ったり、防寒具を配ったりしてくれました。その優しさに感動しました。ディズニーリゾートの外はあまりにひどい光景でした。ホテルに着いても断水してるし食料も非常食しかありませんでした。夜は携帯の緊急速報が鳴る中眠りました。テレビでは津波の映像がたくさん流れていました。とても悲しくなりました。
5年前、私は普通はできない経験をしたと思っています。被災したことで精神的に強くなりました。ディズニーリゾートのキャストの方々はゲストひとりひとりを支えていました。私も被災した方々を支えたいです。5年で完璧に元々の暮らしには戻れませんが、私は被災地の方々が早く元の暮らしに戻れるように心から祈っています。
長文誠に失礼しました。
震災から5年・・
当時は小学校6年生で卒業式前日でした。
あの日のことは今でもよく覚えています。
震災で被害を受けた方々に少しでも自分が力になればと思い、義援金を東北の方々へ送りました。東北の復興した街。そして、被災した方々の元気な笑顔が早く見れることをお祈りします。
僕はあの日、学校にいました。
当時小学5年だった僕は突然今まで感じたことのない揺れを感じました。
まだ雪の降る3月、校庭でみんな心細そうにしていたのを今でも覚えています。そこで友達の母親から聞いたのは隣の宮城で震度7の大地震が発生したということでした。すぐに状況を確認したかったのですが、停電していたこともあり確認はその日はできませんでした。
僕の家の停電が復旧したのは翌日の夜7時くらいでした。テレビをつけた途端目に飛び込んできたのはあまりにも凄惨な光景で言葉が出てきませんでした。
僕の家の近くに市で一番大きな体育館があり、そこにも沢山の被災した方々が避難してきました。
僕は何か出来ないかと思いましたが小学生だったこともあり何もできませんでした。
今、高校生となった僕ができることは震災を忘れずその教訓を次の世代に伝えていく事だと思います。自分にできる事は小さいかもしれませんがもしまたこの様な事があったなら、その教訓が活かされればいいなと切に願います。
あの日、テレビ番組が全て震災の生のようすが流れました。テレビに向かって泣きながら叫んだのが昨日の事のように思えます。
あの日、わたしの子どもたちに「現実なんだ」と言いながら学校から東日本大震災発生というメールが届きました。
あの日から数日後に上の子の中学校の卒業式。受付では保護者の方々、率先して全員が募金をしていました。
あの日からなにができる?
ずっと考えました。
4年前から学校という職場の職員にさせていただき、絵本や児童書で子どもたちに地震や津波、その場に暮らす方々、離れて暮らす方々、ペットのことを伝えています。
大したことは出来ません。
でも忘れないことを大人になっても覚えていてほしいです。
「奇跡の一本松」の話が絵本になって展示させていただいてます。子どもたち、長崎から復興を願ってお祈りしています。
忘れない。忘れられない。