福島県は祖父母が住んでいるから、好きな場所だけど、福島県について書き込むことをいつもためらってしまう。福島県の原発の電力で生きているくせに、放射能の被害がほとんどなかった関東に住んでる人が福島県に対してやすやすと「頑張れ」とか「復興」だとか言っちゃだめなんじゃないかと思う。かといって何ができるかもわからない。
あの日から明日で5年。
テレビで見たあの光景は、自分の全てを恐怖
で包み込み足がすくんで動けなくなりました。そして5年を迎える明日僕は中学を卒業します。
いろいろな思いを背負い、あの日中学を卒業したくても出来なかった東北の仲間の為の分も精一杯卒業してきます。あの日を忘れてはいけない
あの日、母がドラマの再放送を録画していたのですが、「震度7」というテロップが流れ、ニュース番組に切り替わり、そしてリアルタイムで入ってくる津波の映像をキャスター、コメンテーターの方がそれを茫然とみる…という映像がまだ我が家のテレビに残っています。
当時の僕は小学二年生で、物心あるかないかのときだったのを覚えています。
でもその日の記憶だけは鮮明に覚えています。その時のことも、その時の夕食も。
なにも知らない僕は、普通に学校から帰ってきて、急に、静岡に住んでいる祖母から電話がかかってきました。
「テレビ見て!」と言われ、「なんもないでしょ」と思っていた僕が、テレビを見た時のその映像は、
小2の物心あるかないかのときの僕の脳裏にその映像は焼きつきました。
それは、防波堤を越え、町、車、人、全てを飲み込む「津波」という悲惨なものでした。
自分は、山口県に住んでいて、被害を受けた「被災者」ではありません。
でも、そのテレビを通して見たことを忘れることなく、「伝える者」としてなら、被災者の人の苦労、困難、悲しみ、全てを、次の世代に記憶を受け継ぐことができるのではないでしょうか。
今日、父に言われたことは、
「急に、帰るところがなくなったり、友達と急に別れたりすることが考えられるか?」
と、言われました。
自分は考えられないと、そのとき思いました。
だからこそ、今、この環境、友達、家族、この時一瞬、一瞬を大切にしなければなと思わされる日だなと思います。
遠いところからですが、被災者の皆さん、いや、「震災の記憶を受け継ぐ資格のある人」たちの皆さん。
完全復興に何年かかるかわかりませんが、頑張ってください!
もう5年、まだ5年。
それぞれ思うことはたくさんあると思う
あの日の揺れを思い出す人、
テレビに流れ続ける同じCMを思い出す人
大切な誰かを思い出す人。
それぞれの心の中にある3.11を大切にして
明日だけじゃなくて、いつも心の隅に置いておくこと
それが1番大事だと思う。
自分は3.11のあと、日本を離れた。
私が日本人だと知って、君が生きていてよかったと
涙を流してくれた人がいた。
国境を越えて、海を越えて、
たくさんの人が応援してくれてる日本が
とても誇らしかった。
それぞれの心の中にある3.11を大切にしよう。
キッフアンドリリースに参加することでもいいんだ。
難しく考える必要はないよね
出来ること、始めよう
どんなに小さな力でも。
5年前の3/11、私は小6で思い出作りのために友達の家族と私の家族の2家族でディズニーリゾートに旅行に行きました。ちょうど旅行の1日目でした。2時半過ぎ、あと少しでビックサンダーマウンテンに乗れるというところで地面が揺れ始めました。私はアトラクションの揺れかと思っていました。その後立っているのもつらいくらいの揺れが続きました。余震が続く中、ディズニーのキャスト達は無料でポップコーンを配ったり、防寒具を配ったりしてくれました。その優しさに感動しました。ディズニーリゾートの外はあまりにひどい光景でした。ホテルに着いても断水してるし食料も非常食しかありませんでした。夜は携帯の緊急速報が鳴る中眠りました。テレビでは津波の映像がたくさん流れていました。とても悲しくなりました。
5年前、私は普通はできない経験をしたと思っています。被災したことで精神的に強くなりました。ディズニーリゾートのキャストの方々はゲストひとりひとりを支えていました。私も被災した方々を支えたいです。5年で完璧に元々の暮らしには戻れませんが、私は被災地の方々が早く元の暮らしに戻れるように心から祈っています。
長文誠に失礼しました。
震災から5年・・
当時は小学校6年生で卒業式前日でした。
あの日のことは今でもよく覚えています。
震災で被害を受けた方々に少しでも自分が力になればと思い、義援金を東北の方々へ送りました。東北の復興した街。そして、被災した方々の元気な笑顔が早く見れることをお祈りします。
僕はあの日、学校にいました。
当時小学5年だった僕は突然今まで感じたことのない揺れを感じました。
まだ雪の降る3月、校庭でみんな心細そうにしていたのを今でも覚えています。そこで友達の母親から聞いたのは隣の宮城で震度7の大地震が発生したということでした。すぐに状況を確認したかったのですが、停電していたこともあり確認はその日はできませんでした。
僕の家の停電が復旧したのは翌日の夜7時くらいでした。テレビをつけた途端目に飛び込んできたのはあまりにも凄惨な光景で言葉が出てきませんでした。
僕の家の近くに市で一番大きな体育館があり、そこにも沢山の被災した方々が避難してきました。
僕は何か出来ないかと思いましたが小学生だったこともあり何もできませんでした。
今、高校生となった僕ができることは震災を忘れずその教訓を次の世代に伝えていく事だと思います。自分にできる事は小さいかもしれませんがもしまたこの様な事があったなら、その教訓が活かされればいいなと切に願います。
あの日、テレビ番組が全て震災の生のようすが流れました。テレビに向かって泣きながら叫んだのが昨日の事のように思えます。
あの日、わたしの子どもたちに「現実なんだ」と言いながら学校から東日本大震災発生というメールが届きました。
あの日から数日後に上の子の中学校の卒業式。受付では保護者の方々、率先して全員が募金をしていました。
あの日からなにができる?
ずっと考えました。
4年前から学校という職場の職員にさせていただき、絵本や児童書で子どもたちに地震や津波、その場に暮らす方々、離れて暮らす方々、ペットのことを伝えています。
大したことは出来ません。
でも忘れないことを大人になっても覚えていてほしいです。
「奇跡の一本松」の話が絵本になって展示させていただいてます。子どもたち、長崎から復興を願ってお祈りしています。
忘れない。忘れられない。