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私にできること

私は9年前は5歳、住んでいた場所は被災しなかった。覚えていなくてもしょうがないかもしれないけど、知らなくていい、知ろうとしなくていい理由にはならないと思った。自分は知らないことが多すぎた。

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不公平

誰かが幸せになったりするときには、誰かが不幸になったりする。
皆がずっと笑っていられる世界があれば良かったなって。

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3.11

今日という日も、トップニュースはコロナウイルスの脅威ばかりだった。震災は2つ目になってた。
コロナウイルスが話題だからなのか、時の流れによって薄れていくものなのか、不信。

あと、今日、震災直後のSCHOOL OF LOCK!!の放送後記を読みました。
わかったことは、SCHOOL OF LOCK!!は「いつも通り」を貫いてた。それによって、生徒は少しかもしれないけれど、安心できたんだと思う。
全国の生徒からの励ましのFAXや掲示版が、言葉にできないけど素晴らしかった。

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3.11

自分は小1だったな。帰りの会始まる前。電気は全部消えた。同じ県の離れたところだけど、見たことある景色が黒い水で埋もれてた。

その年の8月には兄の関係で仙台に行った。少し海に近づけば、まだそのまんまだった。
岩沼の津波でなんにも無くなった地区も見に行った。石碑に亡くなった人の名前が並んでて、『1歳、3歳』この文字を見て衝撃を受けた。

何より怖いのは原発。自分の住んでる市のすぐ隣の村には原発がある。怖い。もちろん今は止まってるけど。
高校になってそこから通ってる友達もたくさんいる。

全部が当たり前じゃなくなって行く未来がないとは言いきれない。他人事じゃない。すぐ近くにある。

だから、忘れちゃいけない日です。
2011年 3月 11日。
地震発生時刻、午後2時46分

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東日本大震災

発生してから産まれた子も段々と多く、大きくなり、知らない人達が増えてきている
そういう世代の人たちにもしっかり伝えて、今のうちに負の遺産は無くしていきたい
自分には無力に思われる小さい事しか出来ないけど、やれるだけの事をやっていくしかない
それに、そういう人が一人でも多く居ればきっと大きな力になるはずだから

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親父の言葉

親父は東日本大震災の後ショベルカーを被災地に持って行って帰ってきて行った言葉を今でも忘れない「本当にやばかった。地獄みたいだった。でも人は暖かった」って。

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9年前

当時は幼稚園の年長でした。卒園式を1週間後に控えて、9年前の今日も幼稚園で卒園式の練習をしていました。自分の住んでるところは震度6くらいでした。停電になって、ガスも水も止まり、不安ばかりでした。その頃は原発も分からなかったけど、祖父母が住んでいたところは原発の事故で避難区域になり、避難していました。約3年ほど避難していました。体育館で段ボールで仕切られた狭い空間で生活するたくさんの人。ガソリンを求めて長い行列のできるガソリンスタンド。この目でハッキリ見ました。今でも覚えています。このことは100年後、1000年後、ずっとずっと未来に伝えていくことが大切だと思います。私の同級生にも原発事故で避難して、今も自分の家に帰れない友達がいます。でも、その友達は毎日明るく私たちと遊んでくれます。とても強いです。私たちも、そんな人たちを支えていきたいです。

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震災が自分を変えてくれた

あの出来事があったから今の自分がいる。2度目の震災を経験したからこんなにも人によりそう人になったんだ。

これからもそうありたい。

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卒業

明日は卒業式です。この中学校生活は、たくさん遊びました。そして、たくさんの友達が出来ました。勉強は、うまく出来なかったけど、とても満足しています。告白したいけど、前日になると無理ーってなってしまう。明日の自分、頑張れw

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今こそ!

最近、新型コロナウイルスの流行で世界中のみんなが大変な思いをしています
そんな今こそ、我々日本、そして世界はひとつになるべきではないかと思う
去年あったラグビーW杯で言われた「One team」や「one for all, all for one」という言葉があった
今こそ、国民・人類全員で1つのチームになって、一人一人ができることをやっていきたい
そして、困難を乗り越えてもとの生活を勝ち取ろうよ!