「月涙花を見に行きたい」
妹が突然こんなことを言うものだから、私は一瞬その意味を図りかねて本をめくる手を硬直させた。
「……。……何言ってるの?」
夏の盛り。八月下旬。私は家で残りの夏休みを精一杯謳歌するべく、毎日古今東西の本を読み漁っていた。インドアも引くほどのインドアな私は、家で読書という英語の例文にでも出てきそうな過ごし方が大好きだった。そのため夏休み最初の二週間で宿題をほぼ終わらせ、残った時間でせっせと本を借りては読んでいるという状況だ。ここ一週間くらいで20冊近く読み終わり、夏休み終わりまであと四日と迫っていた。あと十冊は読める。
そんな風に思いながら次のページに手をかけていたものだから、まるで外出を強制するような妹のその一言に身を硬直させてしまったのだ。見に行く、だって?
「聞こえなかった? 月涙花見たいって……」
「いや、それは聞こえたけど」
妹は冷房直下のソファに寝転がってスマホを見ながらそう言った。片手には棒アイスが握られている。
月涙花というのは夏のごく限られた期間にだけ咲く青い花だ。ある時期になると一斉に咲き出す月涙花は非常に幻想的であり、日本で唯一の月涙花の群生地、氷枯《ひかれ》村にはこの時期に多くの観光客がやってくる。ほら、と言って妹が見せてきたスマホの画面にも月涙花の写真が写る氷枯村のホームページがあり、今年の月涙花の見ごろの時期なども一緒に載っていた。
「明日から明々後日にかけて……」
月涙花はその美しさの反面、すぐに枯れてしまうという性質がある。咲いている時間も特殊で、咲き出すのは陽が沈んでから、夜明けまでにはほぼすべての花が閉じそのまま二度と開くことなく数日で枯れていってしまう。さらに群生している月涙花は同じ根から咲いていることが大抵であり、一つの群生地で見ごろを逃すとその場所ではもう見ることができなくなってしまう。次に同じ場所で見られるのは五年後なので、よくカップルなんかが五年ごとに写真を撮って記念にするのが定番だったりする。
妹が差し出してきたスマホを眺めながら昔どこかで読んだ本の記憶をあさりつつ、私は思ったことをそのまま口にした。
「なんで?」
***
物語です。長くはしないつもり。
純白の華
雪のように純真なあなたの想いを
知らず知らず傷つけていた
許してなんて言わない
言えないけど
今でもあなたを あなただけを
愛しています
貴方を最後まで好きでいさせてください
時間がないのは私が一番知ってるから
諦められないのも
嫉妬するのも
有頂天になるのも
切ないのも
嬉しいのも
貴方が教えてくれたから
辛い恋でもしてよかったって
思えてるの
あと25日
私が卒業するまで
好きだよ
英人の押しのおかげで、ジュリアは口を開いたものの、やはり改めて聞いても、自分の失われた記憶をジュリアが原因だとは瑛瑠は思えなかった。
「キミは、投げ飛ばされたその衝撃で、記憶喪失になったんだよ?」
だからジュリアせいで記憶喪失になった――その考えは好きじゃないなと瑛瑠は思う。
「英人さんとも話していたのですが、たぶん、防衛本能が働いたと思うんです。消してしまいたいくらい恐い想い、悲しい、寂しい、辛い想いがいっぱいになって、それが溢れたタイミングが投げ飛ばされた時と重なっただけで。仮に、引き金がそれだったとして、それはたまたまだったと思うんです。」
押し止めていた想いが決壊した瞬間がそこだっただけで、それ以前に溢れるだけ溜まっていた想いの量の方が問題だと瑛瑠は思うのだけれど。
「つまるところ、お嬢さまは別に怒っても恨んでもいませんよ。」
やっと口を開くことを許されたチャールズの言葉に、瑛瑠は頷く。
「はい!助けられました。」
微笑むと、ジュリアは少し顔を赤らめた。