表示件数
0

東日本大震災から15年

校長、教頭、はじめまして。奥さんが学生時代に聴いていた影響で、結婚した去年から密かに登校している「大人生徒」です。
「震災を経験した20代、30代の生徒からも」ということで、初書き込みさせていただきます。

当時は神奈川住みの中1。学年末試験もあと1日。いつもより早く帰宅し、録画していた番組を見ていたところ、急にテレビの画面が消えました。
直後、経験したことのない揺れが襲い、立つこともできませんでした。
慌ててラジオをつけると、大津波警報を知らせるチャイムの音、そして緊迫したアナウンサーの声。とんでもないことが起こってしまった、と察した瞬間でした。
停電とともに、うちのマンションは断水。母とともに、小5だった弟を迎えに行った後、小学校へ近所の公園に水を汲み、それを沸かしてペットボトルに詰めてこたつの中へ。
深夜に復旧するまで、ろうそくを灯しながらなんとか暖を取り、乗り切りました。
後日の報道によると、神奈川県は宮城県に次いで停電件数が多かったそうです。
そして、仕事に行っていた父は帰宅困難者となり、会社で一夜を明かし、帰ってきたのは翌日の夕方でした。

テスト最終日は中止となり、終業式まで実質休校。ずっと流れていた震災報道に、恐れおののく日々。
さらに、計画停電で数日おきに数時間、電気が使えなくなったり、あらゆる物資が品薄になってまとめ買いに行ったり…と、神奈川での影響も大きかったです。
そのなかでも、明るい音楽を流したり、立ち向かう被災者の様子を教えてくれたりと、ラジオは心の味方でした。

そんな経験から、神奈川出身・東京在住の自分も、今日という日に特別な想いを抱いています。
東北とはちょっと違いますが、首都圏では当時こんなだったよ、というのを10代のみんなに伝えたいです。

0

東日本大震災から15年

私は宮城県の沿岸部に生まれ育ち、被災した当時は6歳でした。卒園式間近のことでした。
3倍以上歳を重ね、年齢的には大人になって
今年も黙祷を捧げました。

発災当時はまだ幼稚園生で、余震が強く夜中におばあちゃんの腕の中で泣いたこと、子どもながらに津波の映像を見てすごく衝撃を受けたこと、すぐに近くの公会堂に避難できるように1階の台所で母と隣り合わせで眠った夜のこと、中学1年生のときに亡くなってしまった祖父が、車に不安がる姉と私を乗せて、「じいちゃんが絶対守るからな」と強い眼差しで励ましてくれたこと。
停電で何も人工の明かりがないなか、星はきらきら輝いていたこと、全部全部覚えています。

人生の半分以上を「復興後」の景色を見て育ったので、震災の前の景色を時々恋しいと思います。
パズルのように散らばった断片的な記憶ですが、絶対に忘れずにこの日のことを伝えていきたいです。

今日も生命が誕生したり、天国へと向かう生命もあります。
震災を経験してからは、いのちのことを沢山考えるようにしています。
私の周りは奇跡的にみんな無事でしたが、
そうではない人ともこれまで沢山接してきました。
友人の中には、震災で身内を亡くした方もいます。

皆さんへ
今ある幸せを、大切にしてください。
今ある普段の日常を、大切にしてください。

0

東日本大震災から15年

今日は3月11日です
東日本大震災から15年経ちました
職場の後輩と話してたら当時は中学生だったと言ってたので、時の流れを実感します

発生当時は19歳で社会人1年目でした
工場で測定作業してた時だったけど、2分程の縦揺れで地震酔いしました

休憩室のTVで見た津波が現実に起きてることと受け入れなかったです
2週間仕事が休みになったり、計画停電の影響で土日に仕事したりと忙しく過ごしてました

それでも聞き続けてたのがこの番組です
当時はとーやま校長とやしろ教頭でした
BUMP OF CHICKENのメロディーフラッグを流したりガラスのブルースの弾き語り、サカナクション山口一郎さんの上を向いて歩こうを泣きながら歌う等覚えてます
一時期は震災直後や関連した授業の録音を聞いてました

20代からは東北に3回行きました
宮城県の仙台空港近くにある千年希望の丘では津波10m地点に記念碑やベンチが置いてあり、家があった場所が広い公園に変わってる現実をみました

福島県いわき市のマリンタワーから海を眺めたり小名浜港から花火大会を見る、片平里菜さんの10周年ライブで猪苗代湖から磐梯山をみて波音や夕日など自然に癒されました

辛いこともあるけど、前を向いて歩いていきたいです