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5年

普通に考えて長いと思います。しかし、震災からの5年はとても短く感じました。
復興は進んでいるとは言えないと思います。
まだ、あの日より前の町には戻ってない。

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つけたし。

私がいたところは震度5弱。実際には来なかったけど大津波警報が鳴り響き、当時小学2年生の妹は怖がりまくり。
揺れを経験したときの恐怖、大津波警報の鳴り響いた時間。あの日のことは忘れられません。
遠いところだけど同じ日本。遠いけど遠くない。
経験しなかった私は東北の人の気持ちをわかってあげることは出来ないかもしれない。だけど思うだけでもわかりたい。
機会があるたびに微量だけど寄付をしたり。
同じ国に住む国民として出来ることを探して。
地震大国日本。だけど一つになれる力が日本にはあります。
頑張りすぎずに。少しずつでいい。前へ進もう、日本。

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忘れてはいけない

話を聞いていて泣きそうです
これからもがんばってください

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もし自分の立場だったら

被災した方々の気持ちがわかるわけではありません。しかし、「もしも自分が被災した立場だったら」と考えるととても悲しくて辛いです。被災した方々はこの何十倍も何百倍も悲しかったと思います。
昨日まで一緒にいた友人、家族などが亡くなったら…
涙が出ます。想像しただけで。

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ストーブのあの匂い

あのストーブも使えなくて寒い夜。灯油も十分に使えなくて、不完全燃焼を起こすんじゃないかってくらい臭い匂いでも我慢したあの夜。

絶対に絶対に忘れない。

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3/11

あの時小5だった。地震が発生して学校から避難した別にどこかで津波が発生しているとも知らず。停電が起きてあたりが暗かった津波のニュースを見た時他人事のように思えた。でも黙祷をした時涙があふれ出た。他人事だった自分が情けない

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検索するだけ

Yahoo!で明日、3.11と検索するだけで募金する事が出来る。皆さん、しましょうね。こんな事しか出来ない私が情けない。

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うぇーい!(^-^)

書き込むの久しぶりだなー
来週はもっと書き込むぞ!
ところで、
今日球技大会があったんですけど、
最高の日になりましたー(o^^o)
サッカーでは1ゴールきめて、
卓球では2試合とも勝利して、
最終的に16位から4位になりました!(≧∇≦)
みんなとより仲良くなれた気がして
とても嬉しかったです‼︎

もうすぐクラス替えだけど
こうしてみんなでさいごに
成し遂げられて良かったです

あと、久しぶりに
憧れの先輩にも会えて
1人でhappy気分に浸ってました笑

明日は入試の準備なので
朝からバリバリ働きまーす!

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忘れること。

明日で震災から5年。
明日になれば、メディアは殆どがそれ関連。
私、テレビ、見れない。
あの震災で、親戚の人が亡くなった。
それ以上に、津波の映像が、人の叫び声が、鳴き声が、怖い。
どうして、あれを放送する必要があるんだろう。
忘れないためだって言うのは分かってる。
でも、忘れる筈なんてないよ。

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校長‥

こんな時になんですが、ガールズLockにはいったら女子更衣室をのぞくのと同じような・・
空気をよめなくて、本当にごめんなさい。

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3.11

5年前の地震発生時、僕は三重県内の中学校の教室にいました。その時間は総合学習の授業中でした。教室というか、学校が妙に揺れてたことを鮮明に覚えてます。しかし、その揺れは椅子に座っていないと感じとれないくらい小さいものでした。先生は立っていて気付いてませんでした。クラスの中では「なんか揺れてる」「変じゃない?」と声がとんでいて、あるクラスメイトが「先生、地震起きてるんじゃね?揺れてる。座ったら揺れてるのわかるで。」って言い、揺れを認識して地震だと発覚しました。その後、学校の放送で東北の太平洋沖で地震がありましたと流れ、初めて事実を知りました。この日は全部活動が無しになり帰宅しました。帰ってテレビをつけたら津波が仙台空港など沿岸部を襲っている光景を目の当たりにしました。

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まだ5年、もう5年。

復興。
してるのかな。
もちろんしてるところもたくさんあると思う。だけど、5年経ってもまだ仮設住宅に住んでる人もたくさんいるって聞いた。

私は東日本大震災が起きてから、まだ行ったことがありません。
TVや新聞で知るだけです。
こういう生の声を聞けるSOLで今日はじっくり聴きたいと思います。

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俺が書き込みして良いのか分からんが

例えば
あの日の
3月11日に戻れたとしても
その人は走ると思う
大事な、大切な人の為に
あなたは走ると思う
大事な、大切な人の為に
津波にのまれてしまうとしても
あの人は走ると思う
あなたのもとへ
それが人の
愛なんじゃないかな

あの人の代わりに私が
あの人じゃなくて
なんで私が生き残るの
そんな事を考えて
今も悩んでる人へ

あなたが抱えた5年の後悔
代わりに大切な人が生きてても
あなたと同じ苦しみをあじあうのです
同じ悲しみを
5年も一緒に生きるのです

だから
お願いです
あの人の代わりに
私がなんて思わないで

それなら
お願いです
あの人の分も
必死に幸せでいてください

あなたが残された現実
受け止めなくてもよいから
生きててください

それが
あの人の願いだと思うから

あなたが抱えてきた5年の苦しみ
大切な人が五年も
その苦しみを
抱えて生きてるのを
想像できますか

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震災から5年

当時小学生だった私は高校生になりました。震災は建物だけでなく、私たちの心も傷つけました。しかし、震災があったから気づいたこともあります。それは普段何気なく1日を過ごしていることこそが1番の幸せだということです。もし震災を経験していなければこのような大切なことに気づかなかったと思います。そんな私の夢は、日本だけなでなく、世界にも震災の経験を伝えることです。そのために今、英語を一生懸命勉強しています。復興はまだ始まったばかりですが、これからも前を向いて頑張っていきましょう!いつか皆さんに恩返しをするのでその時まで待っていてください!

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思い出した。

未来新聞聞いて5年前のことを断片的に思い出したかもしれない。

席替えしたすぐ後で、仲良い子と近くになれて喜んでたら小さな揺れが来て、「あ、地震」ってクラスの男子が言った瞬間ぐらって大きな揺れが来たこと。

全校生徒で校庭に避難した後、まだ余震が大きくて怖かったこと。

避難するとき階段で泣いてた小さい子達。

屋上のプールの水が全部校庭に落ちてきたこと。

家で見ていたニュース。

今まで忘れかけてたことを思い出した。
やっぱり忘れちゃいけない。
こういう機会で思い出せるなら、それはそういう機会があったほうがいいのかな。

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無題

3.11を忘れないじゃなくて、3.11で何を思い、何を考え、何をするのか、それが大事だと思う。

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5年前

震災があった日、自分は小6でした。
体育館で卒業式の練習をしてて、自分は鈍感揺れたことにあまり気づかなかったけど周りのみんなが今揺れた、やばくない?とか言ってて揺れたんだって感じだったんですけど、教室に戻ってテレビをつけてみると生放送で東北の様子が映されてました、その町は水が流れていたり、建物が倒れていたりと同じ日本で起こっている事実が受け止められませんでした。けど、次の日また次の日と東北のニュースがやっていてとても怖かったのを覚えています。

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3.11

ハジ→の『3.11。』という曲を皆さんに聴いてほしいです。

ハジ→も宮城県出身の方です。

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私の2011.3.11

私は小5でした
その日はいつも朝一緒に行ってた友達が誕生日で朝登校しながらおめでとう!って言ってました
プレゼントどうしようって考えてました
その日は塾もあったはずでした
5時間目の授業中
社会の授業で洋服の原産国がどこか自分の服を見合ってました
なんか揺れるな・・・って思ったらすごい揺れました
今まで体感したこともない揺れでした
蛍光灯が揺れてたのを今でも覚えています
友達が泣いてたのも覚えてます
校庭に逃げました 校長先生が東北地方で震度7の地震が起きたって言ってました震度7がどんなものなのか知りませんでした
もちろんすぐに引取り下校になりました私の家は踏切をまたがなかったのですぐに来ましたが踏切より向こうの子はなかなか来なかったそうです
家に帰ると何も起きてなさそうでしたが引き出しが出てきたりしたそうです
その日はたまたまお父さんが風邪をひいて会社を休んでましたその日はコストコの多摩境店に車で行こうとしてたそうですが風邪なのでやめてましたそこは地震で駐車場のスロープが壊れて数名が犠牲になりました
その代わりネットで買ったものは空気清浄機です地震が来る前に購入したそうで今も活躍してくれてます
もちろんその日の塾は休校
テレビには地震のときの映像と津波の映像そして気仙沼の火災とずっと同じCMでした
気仙沼のことは多分書ききれないので後で書きます
いくら東京でも余震も続きました
だから家族みんなで固まって寝ました
そして私の2011.3.11は終わりました
あれから5年
私は中学受験をして合格して私立の学校に入ってもうそろそろ事実上の卒業をしようとしてます中高一貫なので同じ学校ですからほとんど変わりませんけど
もうそんなにたったんだなもう5年もたったんだな
明日は部活の引退式で先輩を送り出します
2時46分は引退式の真っ最中です
黙祷はできないかも知れませんが心の中ではずっと思ってます「いつかまた楽しく東北に行けますように」

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5年

震災から5年。自分はもう5年なんだと感じます。自分は当時小学6年生。授業が終わって次の授業の準備をしていた時に地震がきました。これは半端じゃないと小学生ながら感じたと思います。あれから5年。正直なことを言うと周りの同級生もあまり震災のことを話さなくなり、このままでは忘れてしまうんじゃないかとも感じつつあります。これは絶対に忘れてはいけません。少しでも後世に語り継いでいけるように微力ながら努力したいなと改めて思います。

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震災から5年

震災が起きた時自分は部活をやっていて気付きませんでした。
家に帰ってから震災があった事を知りテレビの映像を見て本当に日本なのかと思うほど酷い状況でした。震災で被害にあった人達が、街が早く復興して欲しいです。絶対に3.11を忘れることはないし、忘れたくないです。

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3.11

未来新聞を読んで私は3月11日という日をどう捉えていいか分からなくなりました
震災を知るだけの私はどう思うのが正しいのかな

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3.11

東日本大震災
5年前の明日、僕は下校していた。
下校中は何も揺れを感じなかった。
家に帰ってからテレビを見た。
そしたら、あの地震が写っていた。
凄かった。
次は、津波が起こった。
いろんなものが流れていった。
とても残酷だった。
でも、今度は、東南海地震が起こるかもしれない。
東日本大震災より厳しいと言われている。
この地震に備えていきたいと思った。
東日本大震災は、一生忘れてはいけない地震。
絶対に。

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震災のとき

震災のとき僕は卒業式の練習をしていました。栃木県ですが、それまでに経験したことのない大きな揺れと体育館のガラスの割れる音でとても怖い思いをしたことを覚えています。今も被災地はそれほど復興していないとニュースなどで聞きます。本当に何もできない無力感はありますが日本全体で頑張りましょう。

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あれから5年

東日本大震災からあしたで5年
3月11日が近づく度、
いまの生活や環境が幸せなことなんだと思う
あの日大きな地震と津波でなにもかも失ってしまった人達もいる、5年たってもこの先真っ暗という人もいるだろう
そんな人たちがこの先笑って過ごせる日、未来が早く来て欲しい

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悔しい

僕はあの日、テレビで津波の映像を観ていました。その映像を観てた僕は、津波から逃れてる人達を眺める事しかできなく、無力感に襲われていました。そんな自分が悔しくて、でも何もする事が見つからなくて、ただ呆然としていました。
5年たった今、あの日のことを考えるけどまだ何をしていいのか分からない。これからもこうやってウダウダと暮らしていくのかな。悔しい、ただただ悔しい。

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3.11

”震災”が生んだのは悲しみだけじゃないと思う。確かに尊い命や大切な故郷は失われた。でも改めて家族や友達の大切さ、命を守るすべを教えてくれた。まだまだ傷は癒えないし、街もまっさらのまま。でも足元ばっか見てても進めない!前を向いて、一歩、踏み出して見よう!きっと大丈夫!

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あの日から5年…

今でも覚えています。
当時は、小学6年生でした。
学校で初めての地震だったので怖かったです。
私は、5年もたったなんてあんまりはっとしません。
地元は被害はありませんでしたが、家に帰った時テレビをつけたらすべて東北大震災のニュースばかりでした。
私は、楽しみにしてたテレビが見れないことでつまんないなと思ってました。
ですが…わたしには関係なくても、被害にあった人はとても苦しく悲しく辛いこと体験したと思います。
家族や友達や愛する人との急なお別れや、離れて暮らす人や、家が津波に流されて…居場所がくなったり…。
いろんなことをかんがえるととても胸が苦しくなりますね。
私はこの東北大震災の日は絶対に忘れません
いや、忘れてはいけないと思います。

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地元

私は原発のある所に住んでいます。
世間では、原発反対だの賛成だのいろいろな意見が飛び交っていますが、地元の方からするととても複雑なのです。
そもそも原発が立地する自治体には国などからの給付金が支給されます。
でも、もし仮に原発をなくしてしまうとこの給付金がなくなり、その自治体はかなりその給付金に頼っています。
自治体だけでなく、地元の経済はかなり原発の影響を受けています。
なので原発がなくなれば危機的な状況になるかもしれないです。
でも放射能漏れとか事故が怖いです。
生活しているところと原発が近いのでなんかあったら怖いです。
なので簡単に賛成や反対など言えない問題です。

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3.11

先程は長文失礼しました。やっぱりあの緊急地震速報のサイレンは怖いですね。

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三陸鉄道

明日で震災から5年。僕の高校では高1で国内の修学旅行的なのがあり、当時はあまちゃんブームで盛り上がっていた三陸に行きました。まだ北リアス線は全線復旧してないときに、震災学習列車に乗車して被災地をまわりました。がれきの山を目にして本当に心が痛みました。
今回の授業で改めて、震災のことを考えたいと思います。

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未来新聞

ただただ読んで感じたのは、私があの日に体験した恐怖は東北の人が体験したことのほんの一部なんだなってこと。
小4だった私は正直断片的な記憶しかありません。ただ怖かったことだけを覚えていますが、東北の方々は恐怖だけじゃない。あの日何が本当に何があったのか私にはそれがわからないかもしれない。わかろうとしてもわかるものじゃないのかもしれない。だから何って言われたら自分でもわからない。私はいま何を思ってるのか、それすらわからないような気がする。
自分でもよくわからないです。

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3.11絶対忘れない

私はまだ小学校六年生でした。
卒業式も近く中学にいくのをドキドキしながら学校に通ってました。
3月11日、放課後になって帰ろうとすると大きな揺れを感じて先生の指示に従って集団下校で帰りました。テレビをつけるとまかさここは同じ日本とは思えない津波に巻き込まれた町が私の目を引きました。怖かったです。被災地は死者も増えていくばかりで、「地震」という言葉を私は嫌いました。
私はこの震災を絶対に忘れてはいけないと思っています。今生きていることは当たり前ではないことを自覚し、一生懸命に生きてゆきます。亡くなられた人々の分まで。

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あの日を忘れない

明日であの日から5年がたちます。
5年という短く長い、長く短い時間がたってもあの日の出来事は鮮明に覚えています。
それは決して忘れることはないでしょう
今もこれからも…

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無題

取り戻そう。政治家や行政が僕たちの未来を作るんじゃない。
僕たちが未来を作るんだ。いろんな問題がある。
理不尽なこともある。どうしようもない現実もある
でも、僕たちはこの現実を受け止めて未来を作るんだ。
3.11を忘れないだけではなにも変わらない。
3.11から何を思い考えたのか。そしてこれからどうしていくのか。

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使いきりました。

今日、ちはやふるの試写会に好きな人と2人で行ってきました!
ちはやのすずちゃんはめちゃくちゃ可愛くてかっこよかっです!漫画の通りのちはやでした!
映画を見終わったあともんじゃ焼きを食べました!
たぶん、人生の幸せ全部使いきりました、、、
この先どうなるんだろう、、、

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5年前

私は小学4年生でした。当時、私は学童に入っていて学校から学童に帰ってきて、テレビがついていてその中では大きな津波や地震の映像が繰り返し流れていて、恐ろしく感じました。その時は、自分達の事しか考えてなく私の住んでる場所は海に面してないので津波は来ないと落ち着いていましたが、でも今はあの時に東北では津波が襲ってきて恐い思いをしたんだろうなと思うと、自分はもっと考えてればよかったなと思います。
今はだいぶ復興しているそうですけど、まだ海沿いは震災の後が残ってるときいて、まだ私達も協力できることがあると思います。できるだけ協力していきたいです。で

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震災の日

学校から家に帰ると母がテレビを呆然と見ていた。
テレビに映っているものが信じられなかった。
僕はあの日を忘れない。

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上辺だけはもうやめよう

TVで毎年この時期になると、震災特番をやるけど、忘れないでいこう。と言いながら、復興はこれっぽっちも進んでいない。都心部は震災の跡形無く綺麗になったところもあるけど、少し中に入るとまだあの頃のまま、手付かずになっているところだってある。
それなのに復興、復興といえるのだろうか?
決して風化させるな。
復興を少しでも進めよう。
上辺だけはもうやめよう。
みんなで支えあおう。
上を向いて、前向きでいこう。
立ち止まらずに進めば、必ずいつか笑顔が戻るはずだから。

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3.11

あれから5年

震災のあったときから被災地のために何かしたいなと思っていたけど。何をしたらいいのか分からなかった。自分にできることは小さな事だけど何かしたい。
思ってるのに行動できなくて
情けなくまた、歯がゆく思っています。

春から大学生になる僕は今決めました!
大学生のうちに必ず被災地に伺います!

行くだけになってしまうかもしれないけど行かないと分からない事もたくさんあるはず!

前を向くことは忘れることじゃない

STAY STRONG!
まだまだ強く。

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あの日

5年前、私は小学2年生でした。
あの大きな震災で住んでいた家を無くして、仲がよかった友達も遠くに引っ越してしまった。
私の町ではまだ仮設住宅が建っていて、仮設住宅を見ると、「まだこんなにあるんだ」って思う。

もう少しで5年。
引っ越した友達のことを今も時々思い出すけど頑張ろー。

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五年前

あの頃は小学校六年生でした。卒業失っだったのを覚えています。揺れも凄いし地面が本当に割れてしまうのかもしれないというくらい音もすごかったです。自分は内陸に住んでいるので津波はなかったですがとても怖い思いをしました。そして、沿岸から引っ越しして来るひともいました。
自分は震災が起きてからボランティアなどを、たくさんしました。
引っ越しして来たひとと出会えたのはとてもうれしいことです。でも、出会いの分以上に繋がりを失ったと思います。
その時おばあちゃんに言われたのが失った繋がりは戻せないけどこれ以上は無くならない。不幸がたくさん苦しめてきても、その後は必ず幸運がくる。これからは繋がりを無限に増やせるんだよ。と言われて泣きそうでした。
失ったことを無いことには出来ないけど前を向いていこうと五年間来ました。
これからも復興にむけて頑張っていきます!

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もー5年

あれから自分は何も変わってない。今日グッドモーニングアメリカの「サイダーでも飲んで」を聴きました。自分の未来は絶対に自分で切り開くと決めました。サイダーでも飲んで頑張ります。

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3.11

あの時の俺は小学生。正直あの時は友達と一緒にアトラクション感覚だった。テレビを見て事の重大さ、あの時の自分の愚かな思いに気がついた。あれから5年、今でも復興は終わっていない。東京にいる俺がどんな言葉をかけたってそれはおせっかいだし絶対に届かない。歯がゆいけど、できるのは祈ることだけなんだと思う。

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他人事ではない

静岡は40年近くずっと「東海地震が起きる」と言われ続けています。
だから今回の震災は他人事ではないと思っていました。
しかし、皆さんの書き込みを読んだり、東北の生徒さんの声を聴くと、何も知らないのだということを痛感しました。
僕は日本人はこれまで培ってきた力を持っていると信じています。しかしそれは、僕たち自身によって壊すことも守ることもできるもの。
被災された方々は既に頑張っている。その人に対して「頑張れ」などということはできません。今の僕には大したことはできませんが、とにかく早い復興を祈ります。また、風化させないよう後の世代に伝えていく必要性を感じています。

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明日で5年

東日本大震災からあっという間に5年がたちます。当時は中学2年であって、学校で修学旅行に行った後の感想文を書いていたときに発生しました。

机の下に入ってすぐに揺れ始めて、すごく怖かったです。学校から帰ってきて親と一緒にテレビ見たら宮城県に津波が押し寄せてきた光景が映っていたので、見た途端言葉が出ませんでした。

僕は小学4~6年の間宮城県の仙台市に住んでいて、もしまだ宮城に住んでいたらどうなっていたのだろうと考えていました。

東京に戻ってきても、宮城の小学校の友達はどうしているのだろうと考えたりもします。今では連絡もしていませんが、元気であることを祈っています。

長々とすいません。震災で亡くなられた人たちのご冥福をお祈りいたします。

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あの日から

5年前僕はまだ小学3年生でした。中学受験をすることを決めたぼくはその日が初めて塾に行く日でした。5年前の3/11高知県は離れていて揺れは起きませんでした。しかし、自分たちに聞かされたのは東北で地震が発生して津波が来るかもしれないというものでした。内陸の方に住んでいたし、津波というものがどんな物かも正直その時わかりませんでした。あの日学校から帰って家でテレビを見ると地震が起きたニュースばかりでした。地震を経験した事がなかったですが、震度7という揺れがどれだけのものかは体験した事があり、少し心配でした。塾で先生たちがテレビに釘付けになっていて、それをみると海から津波が押し寄せてくる映像でした。目の前の現実を小学3年だった当時の自分にはあまり理解できませんでした。しかし、家や車が流され屋上に取り残された人をみて事の重大さに理解させられました。5年経って、まだまだ色々な問題はありますが、今確かに進んでいる復興。また、皆が笑顔で歩く元通りの街に戻れるように願っています!

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あの日のこと

被災したわけではないけど書き込ませていただきます。
卒業を目前に控えていた小6だったあの日。私はクラスでコンピューター室で調べ学習をしてた。こっちでもすごい揺れを感じて、すごく怖かった。そのあとここでは何もなかったことがわかって、調べ学習は再開。その時にネットニュースでみた「東北地方で震度7以上の地震」大変だと思ったし、信じられなかった。家に帰ってテレビを見てやっと現実だと分かった時、私と同い年の子たちは大丈夫なのかとすぐに思った。私には東北の親戚や友達がいるわけじゃないけど、悲しかったし何もできない自分が悔しかった。あれから5年。私には何かできているだろうか。ちょっとの募金をしたり忘れないでいることしかできないけど、少しは力になれているだろうか。被災した皆さんが、みんな笑える日が来ますように。長文失礼しました

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あの日から

大震災から5年、まだ5年かもう5年かはよくはわからない。あの日の自分はまだ小学五年生でニュースで流れる津波が人に向かって襲いかかり人の悲しみの声と共に流れる映像を見ながら、声も届けてあげることも手を差しのべてあげることもできず、何もすることができずにいた。
そんな日からいつの間にか5年も経った、けれど、未だに自分は何もすることが出来ずにいる。けれど、今の自分には学ぶ場があり、これから数年先に震災の被害にあった人に勇気を与える事ができることもできる。そのために今自分ができることを精一杯やっていきたい。今を一生懸命生きて学んで経験を積んで、そして将来は全ての人に勇気を与えることをしたい。