先程は長文失礼しました。やっぱりあの緊急地震速報のサイレンは怖いですね。
明日で震災から5年。僕の高校では高1で国内の修学旅行的なのがあり、当時はあまちゃんブームで盛り上がっていた三陸に行きました。まだ北リアス線は全線復旧してないときに、震災学習列車に乗車して被災地をまわりました。がれきの山を目にして本当に心が痛みました。
今回の授業で改めて、震災のことを考えたいと思います。
ただただ読んで感じたのは、私があの日に体験した恐怖は東北の人が体験したことのほんの一部なんだなってこと。
小4だった私は正直断片的な記憶しかありません。ただ怖かったことだけを覚えていますが、東北の方々は恐怖だけじゃない。あの日何が本当に何があったのか私にはそれがわからないかもしれない。わかろうとしてもわかるものじゃないのかもしれない。だから何って言われたら自分でもわからない。私はいま何を思ってるのか、それすらわからないような気がする。
自分でもよくわからないです。
私はまだ小学校六年生でした。
卒業式も近く中学にいくのをドキドキしながら学校に通ってました。
3月11日、放課後になって帰ろうとすると大きな揺れを感じて先生の指示に従って集団下校で帰りました。テレビをつけるとまかさここは同じ日本とは思えない津波に巻き込まれた町が私の目を引きました。怖かったです。被災地は死者も増えていくばかりで、「地震」という言葉を私は嫌いました。
私はこの震災を絶対に忘れてはいけないと思っています。今生きていることは当たり前ではないことを自覚し、一生懸命に生きてゆきます。亡くなられた人々の分まで。
明日であの日から5年がたちます。
5年という短く長い、長く短い時間がたってもあの日の出来事は鮮明に覚えています。
それは決して忘れることはないでしょう
今もこれからも…
取り戻そう。政治家や行政が僕たちの未来を作るんじゃない。
僕たちが未来を作るんだ。いろんな問題がある。
理不尽なこともある。どうしようもない現実もある
でも、僕たちはこの現実を受け止めて未来を作るんだ。
3.11を忘れないだけではなにも変わらない。
3.11から何を思い考えたのか。そしてこれからどうしていくのか。
今日、ちはやふるの試写会に好きな人と2人で行ってきました!
ちはやのすずちゃんはめちゃくちゃ可愛くてかっこよかっです!漫画の通りのちはやでした!
映画を見終わったあともんじゃ焼きを食べました!
たぶん、人生の幸せ全部使いきりました、、、
この先どうなるんだろう、、、
私は小学4年生でした。当時、私は学童に入っていて学校から学童に帰ってきて、テレビがついていてその中では大きな津波や地震の映像が繰り返し流れていて、恐ろしく感じました。その時は、自分達の事しか考えてなく私の住んでる場所は海に面してないので津波は来ないと落ち着いていましたが、でも今はあの時に東北では津波が襲ってきて恐い思いをしたんだろうなと思うと、自分はもっと考えてればよかったなと思います。
今はだいぶ復興しているそうですけど、まだ海沿いは震災の後が残ってるときいて、まだ私達も協力できることがあると思います。できるだけ協力していきたいです。で
学校から家に帰ると母がテレビを呆然と見ていた。
テレビに映っているものが信じられなかった。
僕はあの日を忘れない。
TVで毎年この時期になると、震災特番をやるけど、忘れないでいこう。と言いながら、復興はこれっぽっちも進んでいない。都心部は震災の跡形無く綺麗になったところもあるけど、少し中に入るとまだあの頃のまま、手付かずになっているところだってある。
それなのに復興、復興といえるのだろうか?
決して風化させるな。
復興を少しでも進めよう。
上辺だけはもうやめよう。
みんなで支えあおう。
上を向いて、前向きでいこう。
立ち止まらずに進めば、必ずいつか笑顔が戻るはずだから。
あれから5年
震災のあったときから被災地のために何かしたいなと思っていたけど。何をしたらいいのか分からなかった。自分にできることは小さな事だけど何かしたい。
思ってるのに行動できなくて
情けなくまた、歯がゆく思っています。
春から大学生になる僕は今決めました!
大学生のうちに必ず被災地に伺います!
行くだけになってしまうかもしれないけど行かないと分からない事もたくさんあるはず!
前を向くことは忘れることじゃない
STAY STRONG!
まだまだ強く。
5年前、私は小学2年生でした。
あの大きな震災で住んでいた家を無くして、仲がよかった友達も遠くに引っ越してしまった。
私の町ではまだ仮設住宅が建っていて、仮設住宅を見ると、「まだこんなにあるんだ」って思う。
もう少しで5年。
引っ越した友達のことを今も時々思い出すけど頑張ろー。
あの頃は小学校六年生でした。卒業失っだったのを覚えています。揺れも凄いし地面が本当に割れてしまうのかもしれないというくらい音もすごかったです。自分は内陸に住んでいるので津波はなかったですがとても怖い思いをしました。そして、沿岸から引っ越しして来るひともいました。
自分は震災が起きてからボランティアなどを、たくさんしました。
引っ越しして来たひとと出会えたのはとてもうれしいことです。でも、出会いの分以上に繋がりを失ったと思います。
その時おばあちゃんに言われたのが失った繋がりは戻せないけどこれ以上は無くならない。不幸がたくさん苦しめてきても、その後は必ず幸運がくる。これからは繋がりを無限に増やせるんだよ。と言われて泣きそうでした。
失ったことを無いことには出来ないけど前を向いていこうと五年間来ました。
これからも復興にむけて頑張っていきます!
あれから自分は何も変わってない。今日グッドモーニングアメリカの「サイダーでも飲んで」を聴きました。自分の未来は絶対に自分で切り開くと決めました。サイダーでも飲んで頑張ります。
あの時の俺は小学生。正直あの時は友達と一緒にアトラクション感覚だった。テレビを見て事の重大さ、あの時の自分の愚かな思いに気がついた。あれから5年、今でも復興は終わっていない。東京にいる俺がどんな言葉をかけたってそれはおせっかいだし絶対に届かない。歯がゆいけど、できるのは祈ることだけなんだと思う。
静岡は40年近くずっと「東海地震が起きる」と言われ続けています。
だから今回の震災は他人事ではないと思っていました。
しかし、皆さんの書き込みを読んだり、東北の生徒さんの声を聴くと、何も知らないのだということを痛感しました。
僕は日本人はこれまで培ってきた力を持っていると信じています。しかしそれは、僕たち自身によって壊すことも守ることもできるもの。
被災された方々は既に頑張っている。その人に対して「頑張れ」などということはできません。今の僕には大したことはできませんが、とにかく早い復興を祈ります。また、風化させないよう後の世代に伝えていく必要性を感じています。
東日本大震災からあっという間に5年がたちます。当時は中学2年であって、学校で修学旅行に行った後の感想文を書いていたときに発生しました。
机の下に入ってすぐに揺れ始めて、すごく怖かったです。学校から帰ってきて親と一緒にテレビ見たら宮城県に津波が押し寄せてきた光景が映っていたので、見た途端言葉が出ませんでした。
僕は小学4~6年の間宮城県の仙台市に住んでいて、もしまだ宮城に住んでいたらどうなっていたのだろうと考えていました。
東京に戻ってきても、宮城の小学校の友達はどうしているのだろうと考えたりもします。今では連絡もしていませんが、元気であることを祈っています。
長々とすいません。震災で亡くなられた人たちのご冥福をお祈りいたします。
5年前僕はまだ小学3年生でした。中学受験をすることを決めたぼくはその日が初めて塾に行く日でした。5年前の3/11高知県は離れていて揺れは起きませんでした。しかし、自分たちに聞かされたのは東北で地震が発生して津波が来るかもしれないというものでした。内陸の方に住んでいたし、津波というものがどんな物かも正直その時わかりませんでした。あの日学校から帰って家でテレビを見ると地震が起きたニュースばかりでした。地震を経験した事がなかったですが、震度7という揺れがどれだけのものかは体験した事があり、少し心配でした。塾で先生たちがテレビに釘付けになっていて、それをみると海から津波が押し寄せてくる映像でした。目の前の現実を小学3年だった当時の自分にはあまり理解できませんでした。しかし、家や車が流され屋上に取り残された人をみて事の重大さに理解させられました。5年経って、まだまだ色々な問題はありますが、今確かに進んでいる復興。また、皆が笑顔で歩く元通りの街に戻れるように願っています!
被災したわけではないけど書き込ませていただきます。
卒業を目前に控えていた小6だったあの日。私はクラスでコンピューター室で調べ学習をしてた。こっちでもすごい揺れを感じて、すごく怖かった。そのあとここでは何もなかったことがわかって、調べ学習は再開。その時にネットニュースでみた「東北地方で震度7以上の地震」大変だと思ったし、信じられなかった。家に帰ってテレビを見てやっと現実だと分かった時、私と同い年の子たちは大丈夫なのかとすぐに思った。私には東北の親戚や友達がいるわけじゃないけど、悲しかったし何もできない自分が悔しかった。あれから5年。私には何かできているだろうか。ちょっとの募金をしたり忘れないでいることしかできないけど、少しは力になれているだろうか。被災した皆さんが、みんな笑える日が来ますように。長文失礼しました
大震災から5年、まだ5年かもう5年かはよくはわからない。あの日の自分はまだ小学五年生でニュースで流れる津波が人に向かって襲いかかり人の悲しみの声と共に流れる映像を見ながら、声も届けてあげることも手を差しのべてあげることもできず、何もすることができずにいた。
そんな日からいつの間にか5年も経った、けれど、未だに自分は何もすることが出来ずにいる。けれど、今の自分には学ぶ場があり、これから数年先に震災の被害にあった人に勇気を与える事ができることもできる。そのために今自分ができることを精一杯やっていきたい。今を一生懸命生きて学んで経験を積んで、そして将来は全ての人に勇気を与えることをしたい。
私は原発のある所に住んでいます。
世間では、原発反対だの賛成だのいろいろな意見が飛び交っていますが、地元の方からするととても複雑なのです。
そもそも原発が立地する自治体には国などからの給付金が支給されます。
でも、もし仮に原発をなくしてしまうとこの給付金がなくなり、その自治体はかなりその給付金に頼っています。
自治体だけでなく、地元の経済はかなり原発の影響を受けています。
なので原発がなくなれば危機的な状況になるかもしれないです。
でも放射能漏れとか事故が怖いです。
生活しているところと原発が近いのでなんかあったら怖いです。
なので簡単に賛成や反対など言えない問題です。
あの時は小5だった。急に大きな地震が来て全てが止まったような気がした。山形だから大丈夫だって他人事だったけど停電も発生して恐怖だった
あの時火災、津波と様々な自然現象に見ているだけであった。そのあとの追悼式、黙祷では、自然に涙が出てきた。あの時の他人事だった自分を許せない
明日は絶対に忘れちゃならない日。ずっとこの先自分の子供ができたときに教えてあげて絶対記憶をとぎらせてはいけないと思う。
5年前のあの日、私は当時小学5年生。三学期最後の理科の授業を受けて理科室にいました。
友達が揺れに気づき、理科室のぶら下がった電球がブランコのように揺れ、窓がきしみ、経験したことのない恐怖が私たちを襲いました。
避難で外階段を走っていた時いつもはおちゃらけてるクラスのみんなのあんなに怯えた声は初めて聞きました。
校庭に出ても余震が続き友達のお父さんがみんなを送っていってくれました。
家に着くといつものテレビはやってなくてお母さんがケータイを握りしめて祖母と祖父に電話をかけていました。
電気でキッチンがなりたっていたのでお鍋用のガスコンロでスパゲティをお母さんが作り、薄暗い中で食べ、いつ避難してもいいように私服を着て電源の落ちたこたつに湯たんぽをいれ、そこでみんなで寝ました。目を覚ますとあれだけ非日常的な事が起こったのにまた朝がきました。
テレビをつけると私達が想像したこと以上の事が震源地の東北で起きていました。
福島では小学5年生には理解出来ないことが起こり、
岩手の方では「津波」が町を襲い、
日本で何が起こったのか理解はできませんでした。
あれから5年私は中学校を卒業しようとしています。
3月になるとテレビ番組はあの日の話になります。あれから5年復興は進んでいます。でもまだ。まだまだ。みんなが元通りになる事は不可能だとしても10年後20年後少しでも多い人が普通の幸せな生活が過ごせていたらと思います。
長文失礼しました
当たり前に生きている事が、こんなに幸せだなんて今まで思いませんでした。でも、震災が起きてからこの幸せを生きているだけでこんなに有難い事だと思うようになりました。たった一つの地震で1万人以上の命を奪ってしまった。でも、自然を憎まないで欲しいです。これからも我々人間は自然と共に暮らします。人間はずっと自然と共に生きていくのだから。
テレビなどのメディアでは風化させてはいけないって言ってるけど、被災者は忘れて欲しいことも忘れて欲しくない事もあるっていう真実を伝えるべきだと思います。そして思い出したかのように3月になるとその場その場だけの情報になっているのを感じます。 私はこういったことをSCHOOL OF LOCK!!の生徒のみなさんだけでも知っていて欲しいと思ったので投稿しました。
家族でも避難場所の確認とか非常用の食品とか今まで以上に備えて置くようになったな。
明日何があってもすぐ対応出来るように…。
私は5年前小6でした。授業を受けていた時急に揺れました。その時はすぐに揺れがおさまりました。家に帰ってニュースを見ると、車とか家が流されているのを見て、とても驚きました。今でも
覚えていて、思い出すだけで胸が苦しくなります。
私は絶対に3月11日を忘れません。忘れてはいけない日だと思います。
未来新聞読みました。
私の祖父母が福島に住んでいるので震災のことはただの他人事とは思えません。
今でも復興はまだまだすすんでいないのはこの目で見ています。
だから、小さいことでもいいから東北の復興のお手伝いがしたいです。
明日私の学校で最寄駅での募金活動のボランティアがあります。参加します。
夏休みには福島にボランティア行きます。
絶対です。これは決心です。
東北のみなさんの心の傷が少しでも癒えますように。そして復興が進みますように。
あの日から5年経ったけど、あの時は小5で学校は大掃除を始めて、机などの備品を廊下に出して教室の床にワックスを掛けようとしたら、あの大きな揺れに襲われ、校庭へ避難する時は恐怖で手が震えてた事を覚えています。
家に帰って、テレビを見たら津波の映像を見て、心が本当に痛くなり何も言えなかった事を覚えています。
5年経って思うけど、自分ではあっという間な5年でした。
これから10年、20年、経つに連れて、あの日の事を風化させない様にみんなでこれから生まれてくる子供達に震災の事を伝えていける様にしなければいけないと思いました。