本当に残念なことです。
少しでも日本への愛があれば、辛い経験をした同胞をむしろ元気づけてあげたいという気持ちになると思うのですが。
それを見て見ぬふりをする政治に対しても腹が立ちます。
テレビから受ける情報ばっかりじゃなくて、こうやって現地の人の声をもっと聞いてほしい。
六年前、まだ小学校三年くらいの頃、地震なんてものの恐ろしさをまだ知らなかった。
確かあの時は僕らは自習していたんだ。いきなり大きく左右に揺れた。そして二日くらいの間停電。
コンビニにもスーパーにも何一つなくて 停電の間はカップラーメンでも食べたんだっけ...。 まだその時は、何があったのか分かってなかった。
停電も復旧してすぐにテレビをつけた時、自然の残酷さ、恐ろしさを僕らにうえつけた。
迫る津波、逃げ惑う人、手遅れだった人。もし、あそこにいたのが俺だったら...。恐怖しかなかった。
今でも地震速報がなるたびに心臓がバクバクする。「死」というものはすぐ近くにあると思うと
やはり恐い。何年たってもあの日は忘れてはいけない。
東北のうまいもん 食いたい
めっちゃうまそう 桃なんてもう 想像しただけで腹が減ってくるwww・・・
津波や地震の怖さを知った。
避難訓練の大切さを知った。
そして何より、人々の心の温かさを知った。
今までにないくらい、みんなが団結していたあの日。
人々は知ってる知らないじゃない。
もしものときに、協力出来るか出来ないなのだ。
いじめって、これまでも、これからも、やってはいけない。
みんな同じ人間じゃん。
震災からこんなに時間が過ぎてて、何もできない自分。悔しい。
まだまだ大変な生活をしている人もいる。
自分には何ができるのかな…
SOLのおかげであらためて、このことを伝えていかなければならならいなと思えた。
自分にできること、早く見つけられればな
僕は高校の時にたまたまクラスが同じの中に福島の人がいました。正直知らない期間もありましたが、知ったからといって、対応が変わったわけでもありませんでした。
なので、一部の頭の硬いというか、言っちゃ悪いけど馬鹿な人がイジメとかしてるのは許せないです
どうして、避難してきた人が、いじめの標的になるんだろう?
同じ日本人なのに。
私は福島県の福島市に住んでいます。内陸なので震災当時は、津波はなかったですが、電気も水もない生活を送っていました。情報を集めるには、ラジオしかありませんでした。
今の福島は普通の生活を送れている所もあるし、未だに自分の家に帰れない人もいます。県内全域に共通して言えることは少なからず、原発事故による風評被害を受けているということ。その現状を打破するために将来世代が考えていること。
でも、それが福島の全てじゃないと私は思っています!悲しみとか悔しさを乗り越えていってるっていうことを知ってほしい。『原発の福島』じゃなくて、今の『復興してる福島』を知ってほしい!震災があったから、絆を改めて感じたんだと思います。前を向いて、歩いています。
震災の時のことがよく、分かる。初めて、スクールオブロックで震災について聞いているが、こんなにひどいとは思いませんでした
私は被災地に中学校の頃から毎年学生ボランティアに行っていました。
ボランティアの内容は年々変わっていて、最初の年は土砂とか壊れた家の木などを片付けたりしましたが、最近では被災者との関わりが多くなってきました。やっぱり、少しずつ復興しているんだと感じます。
そして何より感じるのは被災者の方の変化です。
私たちが初めてボランティアに行った時は笑えないって悩んでる人や大切な人を失って泣いていた被災者の方がたくさんいました。私はこのようなお手伝いしかできないことに無力さを感じていました。
ですが一昨年行った際、「あなたたちが来てくれて本当に救われた。本当にありがとうね。来年も是非きてください。」と手を握って言われました。役に立てていた事がとても嬉しくて「また、来年も来ます。毎年きます。来させてください。」と話したのは今でも鮮明に覚えています。
去年行った時には、みんな笑顔でお話ししてくれて、被災した時の状況を詳しく話してくれるようになってきました。復興に前向きな姿勢がバリバリ伝わってきて私ももっと復興に関わっていきたいと思うようになりました。
そして、私は高校三年生になります。最後の学生ボランティアが3/14にあります。去年より復興が進んでいることを期待していますし、被災者の方と話せる事がとても楽しみです(^^)
今年でボランティアは最後ですが、私はこれからも復興に関わるために建築の道に進むことを決めました。これからたくさん勉強して、早く復興に関わっていけるように頑張っていきたいと思います!
2011年3月11日、当時小学4年生で鹿児島にいた私。震災当時は普通に学校に行っていて帰ってテレビを付けたら今までに見たことがない光景が広がっていました。そのときは正直東北がどこかわからなかったし、鹿児島だから自分には関係ないと思っていました。でも、2016年4月14日に実際に熊本地震を経験してあの日自分に関係ないと思った自分は馬鹿だなと責めました。それから椅子が揺れたりソファーが少しでも揺れたら地震かなと思うくらい敏感になりました。
2011年3月11日は本当に絶対に一生忘れてはならない日だと思います。震災をニュースが取り上げなくても、地震の報道があったときだけ思い出すのではなく、常日頃忘れてはいけないと思います。私が初めて地震を身近に感じ、改めて怖いと感じた日でした。
実際に津波に追われた人の話を聞くと、6年前っていうのが嘘みたいにドキドキする。
もしも私が沿岸部に住んでたら、自分の命を自分で守ることができただろうか?
津波の怖さに耐えることができただろうか?
東北の人じゃないけど、これだけは言いたい。
今、生きてる。
これが一番幸せで素晴らしいことなんじゃないかな。
そして、その命を死んでしまった人のためにも、大切にする。
これに尽きる。
震災日の記憶は今でも覚えてるなあ。
長年生きてる祖母でも初めてだ
というぐらいだったし自分も
死ぬまで経験しないと思ってたけど
まさか中1で経験するとは
自分の住んでる所はそんなに被害無かったけど
電気が復旧してからTV越しでみた津波は
なんも言葉が出なかった。
多分時事に興味が無い人はもう忘れてるだろうな
原爆の話だって、阪神大震災の話だって、時間とともに劣化してますよね・・・。
無くなってますよね・・・。
今は映像とかで記録出来てるけど、それでも劣化すると思う。
当時は最新技術を使ってた映像でも、今や臨場感が無いですよね・・・。
出来るだけ現物を残して、進化した技術で常に情報を更新して行って欲しい。
残せるものは、現物で残すべきだと思う。
僕はね。
私は、あの日小学1年生でした。お父さんが、灯油の関係の仕事をしていたので、宮城に灯油を届けた思い出があります。 今も苦しんでいる人がいるから、これからも応援していきたいです。
今日、学校で震災についての授業をしました。
気仙沼についての授業で、そこで出てきたのが「K-port」というカフェです。Kには、絆、気仙沼、そしてこのカフェを建設してくださった渡辺謙さんが込められています。
私も先日、行って来ました。お店の灯台のマークが、希望の光に見えてきた。
あの時自分は小学校5年生でした。大切な時間 大切な人 大切な思い出、全て震災でなくした気分になりました。立ち直るには時間がかかりました、けど皆さんに言いたい事があります。大切な時間 大切な家族 大切な人 大切な思い出 必ず大事にしてください 震災は全てを飲み込みます 今ある環境 家族の愛全て大事にしてください これが震災を経験したものとして絶対言えることです。
謝って許されることじゃないし、謝る資格は私にはないことは理解してる。
それでも、ごめんなさい。私のせいで、あなたは傷ついた。私が、あなたを傷つけた。
毎年報道が減ってるし、内容が薄い
SOLは毎年しっかり取り上げてくれるからほんとにありがたい
被災地に何度か行かせてもらい、ホームステイもさせてもらったことがある。そこで見た景色が衝撃的すぎて、それでも必死に頑張ってる人たちを見て、できることをすると誓った。
その数年後、別の場所だけど被災地に行った時、だいぶマシな状況にはなったけど、それでも爪痕は全然消えてなかった。それなのに、徐々に風化してしまっているように考えてしまったのが高2の秋。
そして今、どうなっているのだろうか。今、そこに生きている人たちは何を思っているのだろうか。そんな中で、自分たちに何ができるか。ずっと答えは出ないように思うけど、それでも。
そのニュース見た瞬間、言いようのない怒り、哀しみの気持ちが溢れました
なんで??なんでよ???
これは大人とか子供とか関係なく、ほんとに考えなきゃいけないと思います
そうか 多いんだー
原爆いじめ
ひどいっすよね 精神的に辛い 大人って怖いし 子供の方が怖い
あの出来事は、決して忘れてはいけないことだと思う。
実際に、その場にいた訳ではないですが、
原発の事故を含め、今後の対策に役立てるべきことだと思う。
絶対に忘れてはいけない。
僕たちで、伝承しないといけない。
6年経ったのにあの日のことはなぜか今起こったように思い出します。
津波の映像を見ると胸が締め付けられたような気持ちになります。
あの日は腰が抜けたような感じになりました。
その時僕は友達と一緒に野球をしててこっちはだいたい震度3~5弱でその時車も横に揺れていたけど僕たちの当時はあんまり地震に恐怖はなかったからバットを地面に置いてまた揺れるかというバカな検証をしてたけど後々考えてみると怖くなりテレビもすべての局が地震や津波や原発事故のことで改めて恐怖が襲ってきた。
もうそれが6年がたつけど忘れられない出来事です
これは後世に残す教訓ですね。
東日本大震災が起こった時はまだ小学校6年生で1週間後には卒業式があるという時に地震が起こりました。その時は授業をしていて、資料を作るために自分の他に3人の友達と一緒に隣の多目的教室にいました。その時突然、上下左右に揺れ始め廊下に出ようとしても立てずにその場でしゃがんで待つ事しかできませんでした。揺れがどんどん強くなってくにつれて、壁が崩れてきたりローラー付きのオルガンがどんどん迫ってきたり、ガラスが割れたりもう怖い、死ぬのかななど思ったりしました。揺れが少しおさまり教室に戻ったらみんなが机の下に隠れてて先生にすぐに校庭に出るように指示があり、火災報知器や警報機などがずっと鳴ってる中慌てずに校庭に避難しました。しかし校庭に避難しても決して安全ではありませんでした。校庭には地割れが起きていてどこにいても怖いと思いました。親が迎えにきて家に帰るとタンスやテレビ、食器棚などのほとんどが全部倒れていたり移動していたりしていました。
体育館に避難しても地震が続いたりしていていつまでこの生活が続くのだろうと思いました。全てのライフラインがが復旧したのが地震が起きてから確か2週間以上はかかったと思います。その時は当たり前のものが当たり前に使えなくのがこんなにも不便な事だと思いました。その時に唯一の楽しみは夜の星を見る事でした。私が住んでいるところは宮城県の中心部から少し離れていた所に住んでいました。普段も星が見えるのですが、地震が起きて周りの電気がない中、真っ暗の中で見た星がすごく綺麗でした。ほんと、当たり前のことが当たり前じゃなくなるっていう事がこんなにも辛い事なんだと改めて知る事ができました。
この事を忘れずにして行きたいと思います。
長くなってすみませんでした。
今日、たまたま学校の理科で地震について習いました。
知識の上で考えても、東日本大震災は本当に大きな地震だったんだなとおもいました。
1上がると32倍になるマグニチュードが9.想像できません。
震度は日本で1番大きい7.
実際に体験していない身のため、被災された方々の気持ちなんて、分かるはずもありませんが、被災地の一日でも早い復興を願っています。
自分でできることは、どんどん協力させていただきます
被災者の方々が一日でも早く元の生活を取り戻せるようになるために