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千年希望の丘

2015年9月1日に宮城県仙台空港近くにある千年希望の丘に行きました
2012年頃にこの番組で紹介されてました
住宅街が公園に変わったことが信じられなかったです
津波10m地点に丘や震災の記念碑が置いてありました
曇りと防災の日と重なり寂しさをより感じました

いつかの震災特番で見守ること生き続けることが未来に繋がると話してたけど、伝える上で大事だと思います

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2011年3月11日 東日本大震災から15年

福岡県なので被災地から離れてはいますが、あの日のことは覚えています。
僕は当時、幼稚園の年長で、祖母の家に帰ってテレビを観ていました。そのとき突然、全チャンネルが地震と津波の映像やニュースに切り替わったのを覚えています。それは初めて、「地震」と「津波」を知った瞬間でした。
今日もテレビや新聞で、関連するニュースや記事を観て、改めて、今生きていることは当たり前ではないと思いました。
掲示板を見て、当時もこのSOL!の存在が、本当に多くの人たちの心のよりどころになっていて、これからも変わらず存在してくれるのだろうと思いました。
自分にできることに取り組んで、与えられた命に感謝して、これからも生きていきます。

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東日本大震災から15年・僕が生まれてから15年

校長・教頭はじめまして。

あの日から、15年... 長かったようで短かったような...
私は現在北海道に住んでいますが、
当時の私は、まだ生まれてなかったけれど、その年に生まれました。
毎年この日にテレビで東日本大震災のことを放送しているのを見ていると、想像しただけで心が痛くなって辛い。

そして今でも、自分の家に帰れていなくて苦しんでいる人が2万人以上いるという現状があるということやこのこと全てを風化させてはいけないことを15年たった今でも改めて感じされられます。

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3.11 あれから15年

今日は東日本大震災の日です。
もし、地震おきたとき、生徒のあなたはどんな行動をとりますか?
僕は小さかったけど、揺れた後で、津波の映像がテレビに流れていたのは覚えています。愛知県の自宅にいましたが、めまいのような揺れがしました。

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3.11

今日は3月11日。
15年前の今日は大粒の雪が降っていました。
地元が東北のため、進学で上京した今も毎年3月11日は東北の地元で過ごしています。
今日も地元で黙祷を捧げました。
当時、私は年長さんでした。14時46分に大きな揺れを感じ、泣きながらお母さんに抱きついて急いで逃げました。
気付いた頃には電気も水も止まっていて、食べるものも暖をとるものもなかったため夜は車の中で過ごすことになりました。車の中ではラジオがずっと流れていました。今振り返ると、震災の時の唯一の救いはラジオだったのだなと思います。
私は怖くて不安でずっと泣いていました。
小さいながらにただ事ではないことを感じたのだと思います。
いつもと違う状況と続く余震、鳴り続ける緊急地震速報。緊張感がずっと続いていました。
しかし、夜10時を過ぎた頃だったと思います。
食べるものもなく車の中にいると、近所のおばあさんが声をかけてくれました。
「うちにおいで。暖かいし軽食もあるから。」と。
近所の方のおかげで生き延びることができました。
あの日の恐怖も不安も何もかも鮮明に覚えています。ですが、これは、人を思って動くこと、助け合うことの大切さを、私の人生に刻んだ出来事でもあります。
これからも震災の記憶と、助け合いの大切さを忘れずに生きていきたいと思います。

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東日本大震災から15年。

校長、教頭、こんばんは。今日で東日本大震災から15年ですが、私は当時5歳で、保育所にいました。今日は家族から聞いた話と震災でも強かったとあるものの話をしたいと思います。

私は14時46分、地震発生当時は保育所で昼寝中でした。昼寝中の地震であったため、自分だけでなく他の人たちも布団をかぶって怯えていました。
その頃母は、自分を迎えに会社から車で向かっている途中でした。しかし、保育所到着直前にして、津波がすぐそこまで来ていて、車をバックして母は少し高めの小さな階段に避難しました。すると波は時間が経つにつれて徐々に高くなり、最終的に車は窓のあたりまで浸水してしまいました。そして母は近くを歩いていた自分の友達の父と保育所の中まで行き、奇跡的に会えました。

父は新しい家の設計を当時の祖母、そして住宅会社の1人と構想を考えていましたが、その後地震が来て、父は自衛隊であったため、すぐに救助に向かわなければならなかったため、すぐに出動しました。もちろん自分は状況を分かっていないため、母が来る前は、「もう会えないのか…。」という悲しさしかありませんでした。

そして震災を乗り越えたとあるものというのは、自分がいつも乗っていた路線「仙石線」のとある車両です。その車両は、東松島市にある野蒜(のびる)駅を発車後に緊急停止しましたが、なんと奇跡的に津波の被害を一切受けることなく無事でした。仮に、津波の勢いがさらに強かった場合はその車両は飲み込まれて悲惨なことになっていたので、まさに奇跡の電車だなと思いました。

これらの教訓は後世に語り継がれるべきであると思います。もう二度とこのような災害は経験したくないと改めて感じました。そしてこれからも前を向き続けます。

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東日本大震災から15年

今日は3月11日です
東日本大震災から15年経ちました
職場の後輩と話してたら当時は中学生だったと言ってたので、時の流れを実感します

発生当時は19歳で社会人1年目でした
工場で測定作業してた時だったけど、2分程の縦揺れで地震酔いしました

休憩室のTVで見た津波が現実に起きてることと受け入れなかったです
2週間仕事が休みになったり、計画停電の影響で土日に仕事したりと忙しく過ごしてました

それでも聞き続けてたのがこの番組です
当時はとーやま校長とやしろ教頭でした
BUMP OF CHICKENのメロディーフラッグを流したりガラスのブルースの弾き語り、サカナクション山口一郎さんの上を向いて歩こうを泣きながら歌う等覚えてます
一時期は震災直後や関連した授業の録音を聞いてました

20代からは東北に3回行きました
宮城県の仙台空港近くにある千年希望の丘では津波10m地点に記念碑やベンチが置いてあり、家があった場所が広い公園に変わってる現実をみました

福島県いわき市のマリンタワーから海を眺めたり小名浜港から花火大会を見る、片平里菜さんの10周年ライブで猪苗代湖から磐梯山をみて波音や夕日など自然に癒されました

辛いこともあるけど、前を向いて歩いていきたいです

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3.11

僕は震災の日は秋田県にいました。
当時は、一つ下の階の友達の家で遊んでいたところでした。
テレビはミヤネ屋を付けており、今時のガキンチョっぽくリビングらしきところにあったソファーをトランポリン代わりにして遊んでいた記憶があります。
断水はなかったものの、停電が起こったため水がタンクから蛇口までは電気がないと送られてこない仕組みであったことから僕の母親が地上の蛇口まで給水をしに行くために1Fから4Fまで何度も往復をしていたというお話を聞いたこともあります。
また、母親の実家が太平洋側に位置しており、地震も僕が住んでいた場所よりもとてもひどかったそうです。また、祖父がその都度くる余震に吐きそうになったという話をしてくれたことも覚えています。
自分がちょうど高校受験をするときにもがっつり地震がきたのですが、その時が自分が記憶している中で1番強かった覚えがあり、その後起こったちょろっとした地震が連鎖したことで、少し気分が悪くなりました。祖父が言っていたことは、まさにこの事なんだなとも思いましたし、改めて自身の脅威を知った瞬間でもあります。
そして昨年お世話になっているNPO法人で、宮城から福島の沿岸部にかけて震災関連の学習をしてきました。
実際に沿岸部の市や町を訪問してみて、過去に自分が新聞で見てきた光景よりを遥かに上回るほど街が発展しており、震災がなかったものではないかと思わせています。
このような出来事があったということは絶対に後世に伝えていかなければならないものだと僕は思いました。